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木更津-川崎フェリー殺人事件の顛末

一度だけ、千葉県木更津方面に不渡り手形を持って押しかけ、濡れ手に粟の集金をしたにも拘らず、帰り途に酔ってしまったことがあった。

私は根が鉄面皮であり、「不義理非人情」を渡世の銘としていた(今はちがう)ので、得意ワザは借金取り(キリトリ)であった。ことに怒濤の寄り身と土俵ぎわのうっちゃりには自信があった。

その時も相手がプロであったので、軍配と同時に怒濤の寄り身を見せたところ、ちょっと拍子抜けする感じで大勝した。

集金を果たして帰るときの気分は晴れがましい。時節は春風駘蕩(しゅんぷうたいとう)として爽快この上なく、助手席にはデパートの紙袋に詰めた札束がうなっており、窓外の桜はほころびかけていた。

あまり気持がよくって、フト魔がさした。

このまま京葉道路を帰れば小松川あたりで渋滞に巻きこまれるのは必定。ならば気分も良いことだし、いっそ木更津港から川崎までフェリーに乗っちまおう、と考えたのである。

フェリー──実はそれこそが、私にとっての天敵だったのである。

地上は春風駘蕩としていたが、海上まで春風駘蕩としていると考えていたのは、私の浅慮であった。春風にあおられて東京湾フェリーは揺れに揺れた。

たちまち酔った。降ろしてくれとも言えず、運転を代わるわけにもいかず、一時間後には車に乗るので、睡眠薬を飲むわけにも行かない。

だが、怖るるに足らないのである。船酔いにはうまい手があるのだ。甲板の長椅子に仰向けて寝る。しっかり目を閉じてひたすら無念無想の境地にひたる。船の揺れは上下運動だけなので、視界を閉ざしてぺたりと仰向いていれば、ふしぎと何ともないのである。ただし、ちらりとでも海面を見たり、口を利いたりすればそのとたんオエッとくる。

こうして私は押し寄せる吐き気によく耐えた。ところがまずいことになった。航路も半ばを過ぎたころ、一天にわかにかき曇ったと見るや、横なぐりの雨が降り始めたのである。

甲板上の人々はみな船室に引っこんだが、私は一身上の都合により微動だにできない。誰だって雨に濡れるかゲロを吐くかと迫られれば、雨に濡れるに決まっている。

私は札束の詰まった紙袋を胸に抱いて、ひたすら降りつのる雨の中に仰臥(ぎょうが)していた。海は荒れ、波しぶきが顔を洗った。

やがて船内放送があった。

「甲板はたいへん危険ですので、船内にお入り下さい」

大きなお世話である。そのうち、もっと大きなお世話のジジイが、風雨をついてやって来た。

「もしもし、もしもし、大丈夫ですか。びしょ濡れですよ」

そんなことはわかっている。しかし高波に揺られてすでに極限状態の私には、答えることも身じろぎをすることもできなかった。

次の瞬間、さらにまずいことが起こった。私を揺り起こそうとしたとたん、濡れた紙袋がビリと破けて、札束がモロにジジイの目に止まったのである。

ジジイは「ああっ!」と叫んで走り去って行った。私はあわくって起き上がったはずみに前ゲロが出てしまい、再び死人のように倒れこんだ。やがてドヤドヤと足音が乱れ、大勢の人々がわたしを取り囲む気配がした。

「死んでる、死んでる」と、狂乱のジジイは叫び続けていた。この際「東京湾フェリー殺人事件」の被害者にならぬためには、何かしら言いわけをしなければならぬのだが、そうとなれば言葉より先にゲロのほとばしることは目に見えていた。しかも衆視の中である。

私はようやくうつろな目を開けて、大丈夫だというふうに肯いた。

「まだ生きてるぞ」と、誰かが言った。

(そうじゃないんだ。俺は木更津まで借金取りに行って、帰りに船酔いしただけなんだ)

と、言いたいが言えない。もし川崎港にパトカーを呼ばれでもしたら、神奈川県警には知り合いの刑事も大勢いることだし、ただでさえさまざまの事件(ヤマ)を踏んでいる最中なのだ。

私はついに肚をくくった。面倒な言いわけは抜きにして、やおらすっくと立ち上り、勇猛果敢な立ちゲロを吐いたのであった。

──食事中の方には深くお詫びをすると同時に、来たるべき東京湾横断道路の開通を、心より祝う。

初出/週刊現代1994年11月12日号)

『勇気凛凛ルリの色』浅田次郎(講談社文庫)

浅田次郎

1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。

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おとなの週末Web編集部 今井
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