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国内外のアーティスト2000人以上にインタビューした音楽評論家の岩田由記夫さんが、とっておきの秘話を交えて、昭和・平成・令和の「音楽の達人たち」の実像に迫ります。フォークシンガー、西岡たかしの第3回では、名曲「遠い世界に」が生まれる過程が明かされます。「これが日本だ、私の国だ」。この有名なフレーズは、どのような思いで生み出されたのでしょうか……。

ワインのように曲を寝かせる

五つの赤い風船時代から西岡たかしは自分の作る楽曲に妥協しない人だった。多くのミュージシャンは、新作アルバムに向けての曲書き時間を設けて短時間で集中的に曲を作る。西岡たかしは全盛時代は常に詞を書き、曲を作っている。が、曲は出来てもすぐにレコーディングはしない。ワインのように曲を寝かせるのだ。その間、詞には何度となく手を入れる。そうやって自分の曲に満足がゆくまで世に出すことはない。

五つの赤い風船の代表曲である「遠い世界に」にも誕生秘話がある。この曲の中に“これが日本だ、私の国だ”というフレーズがあることをぼくはずっと気になっていた。この曲がリリースされた1960年代後半は、70年安保、ベトナム戦争の余波で社会は揺れに揺れていた。ヒッピー・ムーヴメントや1969年にはウッドストック・フェスティヴァルもあった。

ぼくは貧困家庭に育ち、中学時代に日本共産党にオルグされた。使い走りをしながら、共産党の小さな集会に参加した。マルクスの『共産党宣言』を何度となく読んだ。が、政治運動はまったく肌に合わなかった。その時点からいわゆるノンポリになった。が、1960年代後半の日本の多くの若者は、左寄りだった。それはファッションのようだった。

そんな時代の空気の中、“これが日本だ、私の国だ”と歌の中であっても言い切るのは勇気のいることだったとずっと思っていた。この歌の歌詞を追って行っても、どこにも左翼を肯定する部分はない。そんな曲を新宿西口広場に集まった“反体制派”の同世代の若者が歌うのに違和感を持っていた。ちょっと違うよ、「遠い世界に」は、体制、反体制の枠を超えた歌なんじゃないのと思ったのだ。下手すれば、“これが日本だ、私の国だ”というフレーズは体制を肯定するかに聞こえる

音楽の教科書に載った「遠い世界に」

楽曲というのは作り手を離れて、世にリリースされた時、解釈は聴き手に委ねられる。極端な例かも知れないが、荒井由実の名曲「卒業写真」には、写真に映っている“あの人”がいる。今ではユーミンのファンには知られているが、“あの人”は仄かな恋愛を抱いた異性ではなく、ユーミンの学校の教師だったとされる。ユーミンにとっての“あの人”と曲を聴いた人が連想する“あの人”と異なっていてもかまわないのだ。大ヒット曲には概して、そういう連想の誤解が伴うものだ。

もうすぐミレニアムというある時、ぼくはずっと気になっていた“これが日本だ、私の国だ”というフレーズについては西岡たかしに訊ねてみた。

“「遠い世界に」は何年もかけて作って世に出したんですね。それはあの時代の空気からして、左寄りの人には否定の意味で「これが日本だ、私の国だ」が受け取られる。右寄りの人には肯定の意味で、あのフレーズが受け止められる。そんなことは分かっていました。ぼくはあのフレーズを思いついてから、1年以上は自問しました。本当にこのフレーズで良いのか、聴いてくれる人に誤解されるんじゃないかといろいろ考えました。左派イデオロギーでも軍国主義的な意味でもなく、ぼくは「遠い世界に」をもっと大きな曲として捉えていたと今は思います”

そう西岡たかしは教えてくれた。“歌は自分の手を離れたら、子供を養子に出すようなもので、その歌の性格は養父や養母の教育によって決まるんです”とも言っていた。

今では「遠い世界に」を音楽の教科書に載せている学校もある。“文部省(当時)なんて、歌の意味など深く探りませんからね。歌くらいならまだいいけど、本当に深く考えなければ、いけないことも、考えないのがお役人でしょ。でも、「遠い世界に」が教科書に載るという話が来た時は、正直、驚きましたね”と語っていた。

ぼくにとっての「遠い世界に」は少々、ニヒリスティックでありながらも現代への肯定的なメッセージ・ソングである。その歌詞は、この曲がヒットした1960年代後半よりも50数年後の現在によりフィットしているとすら思える。

西岡たかしや五つの赤い風船の作品の数々

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ディレクターは、加藤和彦...
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