国内外のアーティスト2000人以上にインタビューした音楽評論家の岩田由記夫さんが、とっておきの秘話を交えて、昭和・平成・令和の「音楽の達人たち」の実像に迫ります。今回から取り上げるのは、シンガー・ソングライターの小田和正です。鈴木康博ら友人たちと結成したオフコースで1970年にプロデビュー。「さよなら」「Yes-No」など多くのヒット曲を送り出し、89年に解散しますが、その後のソロ活動でも91年の大ヒット曲「ラブ・ストーリーは突然に」をはじめ数々の話題曲を発表し、日本のミュージックシーンに大きな足跡を刻んでいます。第1回は、79年の「さよなら」で注目を浴びるまでの“売れない時代”のエピソードです。
夢は「建築家になること」だった
小田和正は本稿を記している時点で75歳だ。3歳年上の小椋佳、1歳年上の吉田拓郎などほぼ同世代の人々が静かにマイクを置いてゆく中、ツアーを続け、現役で頑張っている。
2022年の吉田拓郎のラスト・アルバム『ah-面白かった』に収録された「雪さよなら」にはゲスト・ヴォーカルで参加し、1年先輩の吉田拓郎の引退に花を添えていた。
東北大学の建築学科を卒業後、早稲田大学の大学院も修了した小田和正の夢は建築家になることだった。早稲田大学大学院では「私的建築論」という修士論文までものにしている。一級建築士ではないが、その実力からして資格を得るのは難しいことではなかったろう。
建築家を目指す一方で音楽にも魅せられていた。小田和正が17歳の年にザ・ビートルズが全世界デビューを果たしていて、小田和正はザ・ビートルズ狂となった。また、その頃はフォーク・ソングも日本では大ブームとなっていた。ベンチャーズによるエレキギターバンドもブームだったが、同時代を生きたぼくの感覚からすると、値の張るエレキギターやドラム・セットが必要なエレキ・バンドより、アコースティック・ギター1本で始められるフォーク・ソング、特にピーター、ポール&マリー(P.P.M)のファンだった小田和正は、小学生時代からの友人だった鈴木康博などと共に音楽活動もスタートさせている。
有料入場者数は5本の指にも満たず…
ジ・オフ・コースという名のグループは最初はフォーク・ソングのカヴァーをしていた。その当時のことをかつて小田和正はぼくに教えてくれた。
“女の子にもてる周囲の奴らは、女性を加えてP.P.Mをカヴァーしていた。俺たちは女の子と無縁だったので、声の高い俺がP.P.Mのマリーさんをやらされたんだけど、女の子のいる本格的なP.P.Mスタイルのバンドが羨ましかったね”
それでもジ・オフ・コースの実力は高かった。1969年、ヤマハ主催の第3回ライト・ミュージック・コンテストに出場し、全国大会まで進み、第2位となった。ちなみにこの時の第1位は「翼をください」の大ヒットで知られる赤い鳥だった。
すぐにデビューの誘いが舞いこみ、1970年4月、「群衆の中で」でデビューする。小田和正は22歳だった。「群衆の中で」に続いて「夜明けを告げに」、「おさらば」、「僕の贈りもの」と次々とシングルを発表するもののまったく売れなかった。
こんなエピソードを東芝EMI(当時)で1970年代中期、オフコースを担当していたO氏に訊いたことがある。レコード会社が尽力して、札幌の収容人員800人ほどのホールで行うことになり、懸命のプロモーションを行った。が、有料入場者は5本の指にも満たず、スタッフも観客席に座ったが、とても寂しい風景だったという。
現在の音楽シーンなら、そこまで不人気なら契約解除とすぐになるだろう。が、当時の音楽シーンにはミュージシャンを一人前に育てあげるという風潮があった。才能に惚れ込んだのはレコード会社なのだから、何とかしてやろうという意気込みがあったのだ。