国内外のアーティスト2000人以上にインタビューした音楽評論家の岩田由記夫さんが、とっておきの秘話を交えて、昭和・平成・令和の「音楽の達人たち」の実像に迫ります。シンガー・ソングライター、小田和正の第2回も、初回に続いてオフコースの“売れない時代”の挿話がつづられます。大学院まで建築を学びますが、大好きな音楽の道へ。デビュー10年目にしてシングル「さよなら」が大ヒットしますが、音楽番組からの出演依頼に対してバンドが取った方針は……。
「今日、ぼくは建築とお別れしてきました」
売れないまま地方のライヴ・ハウスを回る日々が続いた。デビュー当時のオフコースは小田和正と鈴木康博によるデュオ・スタイルだったので、アコースティック・ギターさえあれば軽装でどこへでも行けた。これがバンドだったら音楽業界用語でいうトランポ(トランスポーテーション~機材運搬)に費用がかかるため、全国どこでもそう簡単にライヴはできなかったろう。
1975年現在、小田和正はまだ早稲田大学大学院生だった。その時の心境を教えてくれた。
“建築の道に進みたかった。大学院まで行ったからね。そっちへ進めば収入も安定してるし。その一方で音楽のプロになることを諦めていいのかという自問をしている自分もいた。負けてたまるかという気がしたし、音楽が本当に好きだった”
1975年12月、大学院修士論文の発表を終えた小田和正は、ライヴのトークで“今日、ぼくは建築とお別れしてきました”と語った。勝算の見えない闘いの道を歩むことを決心したのだ。
「売れなくて悔しかったよ」
小田和正という人は、そのヒット曲のイメージから優しく、モロく思われがちだが、何度か逢ったぼくの印象では男らしく負けず嫌いなイメージが強い。やる時は何が何でもやるという昭和の男なのだ。
売れないミュージシャンが10人、20人の少人数ライヴとはいえ、売れていないオリジナル曲をいくら演奏してもファン層は拡大しない。
“売れなくて悔しかったよ。小さなライヴ・ハウスを回るんだけどオフコースの曲はあまり知られていないから、何とかしようと思って音楽ファンなら誰でも知っているビートルズのカヴァー曲を多めに歌って、少しだけオフコースの曲も演奏した。今回のお客さんが20人なら、次はそれ以上集めるようにして、今度この町に来る時はオフコースのオリジナル曲を少しでも多く聴いてもらう。そんな辛抱を何年も続けたよね”
今では信じられない話である。あのオフコースがたった10人、20人の聴衆の前でライヴをやっていたなんて。小田和正の音楽への情熱がそうさせたのと同時、小学校時代からの友人だった鈴木康博との熱い友情もオフコースを支えていたのだろう。