国内外のアーティスト2000人以上にインタビューした音楽評論家の岩田由記夫さんが、とっておきの秘話を交えて、昭和・平成・令和の「音楽の達人たち」の実像に迫ります。歌手・沢田研二の最終回では、例によって筆者の極私的ベスト3を紹介します。デビューから半世紀が過ぎ、ソロとしてのシングル総売上枚数は1200万枚以上、ザ・タイガースとPYG時代も含めると1600万枚以上。今もなお新曲を出し続けるスーパースター、ジュリーのどの曲が選ばれたのか―――。
「僕のマリー」 曲の中に見えた声の色気
2022年は沢田研二がデビューして55周年となる。これまでに残したヒット曲は数多く、その中から極私的3曲を選ぶのは難しい。ザ・タイガース時代、ソロ時代のどのヒット曲もその時々の精鋭と呼べる作詞・作曲家たちが力を入れていたからだ。
極私的に選んだ1曲目はザ・タイガースのデビュー・シングル「僕のマリー」だ。作詞が橋本淳、作曲が後にRPG(ロール・プレイング・ゲーム)『ドラゴンクエスト』の作曲でも知られる、すぎやまこういちというラインアップだ。
1966年1月、ファニーズに加入した沢田研二は、その年の9月12日、大阪のジャズ喫茶(当時はライブハウスという呼び方が無かった)「ナンバ一番」に出演していた時、内田裕也の目に留まる。10月21日には渡辺プロダクションのオーディションに合格し、10月28日に契約した。11月9日に上京、翌日から世田谷区烏山にて合宿生活がスタートする。11月29日、フジテレビの音楽番組「ザ・ヒットパレード」の新人コーナーに出演し、すぎやまこういちからザ・タイガースと命名された。そして1967年2月5日、「僕のマリー」でデビューした。ぼくはその当時16歳で、すぐにザ・タイガースのデビュー・シングルを手に入れている。
1966年6月、ザ・ビートルズが来日した。その人気を目にした芸能界の人々は、日本版ザ・ビートルズを作ろうとした。本家と異なるのは作詞・作曲をプロが手掛け、意識的にアイドル人気を生み出そうとしたことだ。ザ・タイガースもそんな機運からデビューしたGS(グループ・サウンズ)だった。
ぼくが「僕のマリー」の中に見えたのは、リード・ヴォーカリスト、沢田研二の声の色気だった。このシングル録音時、沢田研二はまだ10代だ。だが、その声には妖気とでも呼びたい魅力があり、ぼくはそこに魅せられたのだと思う。その後に比べれば、沢田研二のヴォーカルは、まだ稚拙だったが、声自体の持つ魅力が稚拙さを充分にカヴァーしていたと今では思う。