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国内外のアーティスト2000人以上にインタビューした音楽評論家の岩田由記夫さんが、とっておきの秘話を交えて、昭和・平成・令和の「音楽の達人たち」の実像に迫ります。歌手・沢田研二の第2回は、熱狂的なファンを生んだ“ジュリー”人気を俯瞰します。まばゆいスポットライトを浴びるスーパースターの姿とは別の、筆者が見たひとりの男「沢田研二」とは―――。

「君だけに」と指差されたファンが失神

1967年、沢田研二はザ・タイガースのリード・ヴォーカリストとして「僕のマリー」でデビューした。1968年のシングル「君だけに愛を」の大ヒットで、ザ・タイガースの音楽を知らない人にまで“ジュリー”という名は浸透していった。

「君だけに愛を」を歌う時、歌詞の“君だけに”という部分で、ステージからファンを指差す。すると熱狂したファンの中には失神する者まで出現した。嘘みたいな話だが、本当だ。ぼくも「日劇ウエスタン・カーニバル」などでザ・タイガースのライブを観た時に、失神して運ばれる少女を目のあたりにしている。

余談だがザ・ビートルズにもそんな人気があった。ザ・ビートルズの過去の映像を観ていると、彼らのコンサートで失神する女の子がいたことを確認できる。1966年の武道館公演でも失神者が続出したのもこの眼で見ている。

それよりももっと驚いたのは、彼らの初の映画で1964年に公開された『ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!』(現在は原題の“ア・ハード・デイズ・ナイト”に改められている)を日本の映画館で観た時のことだ。興奮したファンの少女がスクリーン上のポール・マッカートニーやジョージ・ハリスンに抱きつこうとスクリーンに飛び込んで、上映が一時中止になることもあった。

“ジュリー”人気と、ひとりの男「沢田研二」との乖離

現代でも“ジャニーズ系”のコンサートなどでそういった現象が起こると聞いたことがあるが、1960年代の少女ファンは現在のアイドル・ファンよりもずっと過激だったと思う。そして、ザ・ビートルズやザ・タイガースのコンサートへ行くと、ぼくのような少年ファンは圧倒的な少数派で、かなり肩身の狭い思いをした。

そういった現代でいうアイドル・ファンによって“ジュリー”人気は支えられ、それは現実の“沢田研二”というひとりの男と乖離してゆく。ぼくが初めて“生”のジュリーを見たのは「危険なふたり」がヒットしていた1973年のことだ。場所は赤坂にあったTBSテレビのスタジオだ。その頃、ぼくはアルバイトのひとつとして井上順に付き添っていた。彼が司会をする歌番組のためにスタジオへ入った。

仲の良い出演者たちはリハーサルの合い間にTBS館内の喫茶店などで待ち時間を過ごしていた。井上順も布施明やまだ少年だった郷ひろみなどとよくお茶をしていた。そういった会話の中味が歌番組などで使われることも結構あった。

沢田研二、いやジュリーはそういった本番前のちょっとした会話に加わることは殆ど無かった。ひとり楽屋にこもり、リハーサルが近くなるとテレビ・カメラの前にじっと座っていた。照明が落とされた薄暗いスタジオにひとり座るジュリー。誰をも寄せつけないオーラが凄かったのを今でも覚えている。

ザ・タイガース、ソロ時代の沢田研二のアルバムの数々

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