国内外のアーティスト2000人以上にインタビューした音楽評論家の岩田由記夫さんが、とっておきの秘話を交えて、昭和・平成・令和の「音楽の達人たち」の実像に迫ります。シンガー・ソングライター、小田和正の第3回は、オフコース解散後の心境について触れます。筆者が思い切って訊いてみた質問に、答えた内容は……。音楽性とともに人柄が伝わってくる“秘話”です。
昭和の良き時代だからスターになれた
オフコースは約10年かかってスターになった。これは現在のメジャー音楽シーンではありえないことだ。約10年もかけてミュージシャンをスターにできたのは、音楽がまだ文化の色あいを濃く持っていたからだとぼくは思う。文化は一朝一夕では育たない。オフコースの時代、レコード会社という営利組織でも、まだ文化を育むという気概がいくらかはあった。
J-POPが盛んになった頃から、音楽は完全な“ビジネス”へ移行してしまった。ひたすら利益のみを追求し、ミュージシャンを育てるという文化的な余裕を失ってしまった。
発売即ヒット=利益という図式が成りたたないとミュージシャンは見捨てられてしまう。見捨てては次を探す。こうなると音楽はもう商品に過ぎなくなる。オフコースは昭和の良き時代だからスターになれたのだ。
「小田との意見の食い違い」
メジャーになったオフコースだが、小田和正の盟友鈴木康博は、1983年、人気の絶頂時に脱退してしまう。1990年代、スカイパーフェクTVで、ぼくは「Folk And Rock Masters」という音楽番組の司会をしていた。ミュージシャンをスタジオに招いて、アコースティック・ライヴ形式で6、7曲演奏してもらい、ぼくがインタビューをするという形式の番組だった。ある時、鈴木康博をゲストに招いた。
そこで何故人気が絶頂な時、オフコースを脱退したのか訊ねた。“人気とか収入とかあまり考えなかった。自分がやりたかったのがフォーク寄りの音楽だったので、小田と意見の食い違いが表面化した。主な原因はそれだけだね”と語ってくれた。ぼくは鈴木康博の潔さに昭和のミュージシャンの気概を感じた。売れることより自分の音楽を守ることの方が大切だったのだろう。
人気絶頂だったオフコースだが1989年、突如解散してしまう。
“いろいろなことにトライしてみたくなった。オフコースでやっていれば、セールス的には成功するだろうけど、やはりバンドだから、何でもかんでも自分の自由にできるわけではないでしょう。だから、いちかばちかという気持ちで、独りでやってみようと思ったんだ”と小田和正は語っていた。これも昭和のミュージシャンらしい決断だったと思う。