その10 名画につけられたシミ
第2ホール パー4 この精神がわからんのか 3
ゴルフコースの公爵!
われら庶民には縁のない話だが、とくにゴルフ史研究に欠かせないのが貴族の仕組みである。それというのも、かつてゴルフは貴族中心の高貴なゲーム、歴史の多くは彼らによって築かれたからである。
その国によって貴族の段階別称号にも多少の違いがある。たとえば王政復古以前のフランスには、デュック(公爵)からシュヴァリエ(騎士)まで、八クラスの称号が存在した。
一方、中国の漢代は特権階級の量産時代と言われるが、力仕事の免除から刑罰の軽減、皇帝と同時期に「旬の美食」が味わえる権利まで持つ貴族が、なんと20階級もあった。
これが唐代になると、宮廷における席順が目的で、さらに12階級ほど追加したため、首都は貴族だらけ。馬糞掃除の親方までが「公士」の称号を持つに至った。
ゴルフの本家イギリスでも、11世紀のノルマン・コンクェスト以来、王の直属家臣がデューク(公爵)、マーキス(侯爵)、アール(伯爵)、ヴァイカウント(子爵)、バロン(男爵)と分けられ、さらに上流貴族の家臣にはバロネット(従男爵)、ナイト(騎士)の称号が与えられた。
ところが1832年、ロンドンで発行された紳士録に大きなミスが発生して、自分の身分が軽んじられた貴族から名誉棄損の訴訟まで持ち上がる騒ぎ。以後、すべて「サー」と呼ぶことでお茶をにごす風習が定着した。
ちなみに、同じ男爵でも下にイモの二文字が私の身分、それでも精神貴族でありたいと、努力だけは怠らないつもりである。
ほかでもない。1972年に「スコティッシュ・アカデミック・プレス」から刊行された名門ミュアフィールドの変遷史、『MUIREFIELD AND THE HONOURABLE COMPANY』の見返しに、
「ゴルフコースの公爵」
と、印刷されてあった。これに対してセントアンドリュースをはじめ、クラブの冠にロイヤルがつく名門コースから、公爵とは誰が決めた身分なのか、それではわれわれのコースの爵位を明らかにしてくれと侃々諤々(かんかんがくがく)の非難が相次いだ。当のミュアフィールド側は少しも騒がず、次のよに答えたものである。
「諸君は、もう一度歴史の門をくぐって過去の史実に学びたまえ。コースが爵位の対象となり得るならば、ミュアフィールドこそ貴族中の貴族と思い知るだろう」
その通り、スコットランドでゴルフが流行したのは1300年代の後半からだと言われる。スコットランド特有の茫洋たるリンクス(砂丘)には野芝の草原が果てしなく広がり、すべてが公有地とあって平坦な場所に旗が立てられると、誰もがゴルフを楽しんだものである。プレーが終わると近くの旅籠屋か居酒屋に立ち寄って、まずは一杯の黒ビールからゴルフ談義が始まる。1740年ごろには、仲のいいゴルファーが集まって、いまで言うコンペがしきりに行われるようになった。
1744年のある日、リースにある旅籠屋「ルーキー・クレファンズ・ターバン」が根城の十数人によって、史上初めてクラブ組織が誕生する。これぞ最古の「アナラブル・カンパニー・オブ・エディンバラ・ゴルファーズ」であり、1836年にマッセルバラの東6マイルのリンクスに移転、コースは別に作ったが、クラブハウスはマッセルバラGCと共有した。
1890年になると、ゴルファーも急増の一途、すべてが手狭になって収拾つかず、さらに東の町ガランに近い現在のミュアフィールドに移転、と同時にクラブの名称もミュアフィールドGCに変わったが、格式の高さは相変わらずである。
たとえば、ひと目クラブハウスだけでも見たいと、世界中のゴルフ愛好家が地図片手にミュアフィールドを目指すが、容易に発見出来ないのが普通である。ガランの町にも、海岸線に沿った細い道路にも、一枚の看板すら見当たらないのだ。ここはメンバー専用のコースであり、ビジターがプレーする場合でも必ずメンバーが同伴しなければならない。従って看板はなくて当たり前、クラブハウスの入口にも表札がないのである。