名コースを侮辱した、とある国のプレイヤーたち
移転から1年後の1891年5月3日、多くのゴルフ関係者が集まって開場式が行われると、その翌年には早くも全英オープンの舞台に選ばれ、集まった選手たちはミュアフィールドの景観とレイアウトの至難に、ただ絶句するばかりだった。
その2年前の全英オープンに優勝、さらには全英アマに勝つこと9回、アイリッシュ・オープンにも3回優勝している天才アマ、ジョン・ポールも参加選手の1人だったが、初めて見たミュアフィールドの印象を次のように語った。
「ここでパーを取るのは、他のコースでバーディを取るに等しいだろう。平坦に見えるが、その起伏たるや複雑怪奇、しかもバンカーの位置が10ヤードの誤差も許さない。加えて微妙な凹凸と大きなうねりによって構成されたグリーンは、4パットが当たり前に思えるほどラインが読みにくい」
このジョンは、ハンディが「プラス10」の天才だった。つまり「62」で回ってパープレーとは、途方もない。当時のゴルフ界はプロとアマの実力が接近して、ゴルフにおける戦国時代と呼ばれたが、案の定、新装なったミュアフィールドで優勝したハロルド・ヒルトンもまたアマチュアだった。クラブ史の中に、彼の優勝コメントが残されている。
「この素晴らしいコースは、オールド・トム・モリスの卓抜した設計と、近在の人間、牛馬のすべてが動員されて比類なきリンクスに仕上がった。これほど自然の美しさと苛酷さが同居したコースは見たこともない。プレー中に遭遇した夕焼けの大パノラマには、感動のあまり涙が止まらなかった。ミュアフィールドは、神々の住む国に最も近いコースだと思う」
1925年になると、設計界の巨匠ハリー・コルトとトム・シンプソンが招かれ、1番、447ヤード、パー4のホールから改修が始められた。やがてゲームの流れに問題があった場所も整えられて、全長6941ヤード、パー71の世にも美しい18ホールが誕生する。ミュアフィールドGCとは、かくも見事なコースなのである。
ところが1996年のこと、3人の日本人がメンバーと共に1番ティからスタートした。メンバーは急用が出来たのか、前半で帰ってしまった。3人が15番まで来たとき、柵の外にいた細君の一人がコース内に入ると、カメラ片手に18番まで一緒について歩いた。
この行為自体、いかに糾弾されても弁解の余地すらないというのに、それだけではなかった。そのとき、クラブハウス内にいた全員が立ち上がって、顔面を朱に染めながら戸外に飛び出すと、口々に何か叫んだ。
彼らがゆび指す方向に視線をやると、まさに信じられない事態、細君は名誉と伝統に輝くミュアフィールドのコースをハイヒールで闊歩したのである。
それから1ヵ月後、ガランの町でクラブの理事からこの話を聞いて、私は死にたいと思った。同国人でいることに耐えられなかった。
「女房族は、パリとミラノでブランド漁り。亭主もカネにもの言わせて、ゴルフ場のブランド漁りか」
打ちのめされ、顔を上げられず、ひとりバーの片隅に蹲(うずくま)っていた。
(本文は、2000年5月15日刊『ナイス・ボギー』講談社文庫からの抜粋です)
夏坂健
1934年、横浜市生まれ。2000年1月19日逝去。共同通信記者、月刊ペン編集長を経て、作家活動に入る。食、ゴルフのエッセイ、ノンフィクション、翻訳に多くの名著を残した。毎年フランスで開催される「ゴルフ・サミット」に唯一アジアから招聘された。また、トップ・アマチュア・ゴルファーとしても活躍した。著書に、『ゴルファーを笑え!』『地球ゴルフ倶楽部』『ゴルフを以って人を観ん』『ゴルフの神様』『ゴルフの処方箋』『美食・大食家びっくり事典』など多数。