ヘッド・アレンジが主流だった時代
シティ・ミュージックやJ-popという言葉が無かった頃、フォーク、ロック、シンガー・ソングライター・ミュージックなどは、歌謡曲に対して、新しい音楽~ニュー・ミュージックと呼ばれていた。ニュー・ミュージックのレコーディング現場でのアレンジは、坂本龍一の書いたような詳細なアレンジ譜を使わない“ヘッド・アレンジ”が主流だった。ニュー・ミュージックの主だったミュージシャンたちは、東京芸術大学で作曲科を卒業し、同大学院音響研究科修士課程を修了したという坂本龍一のような正式な音楽教育を受けていなかった。
唯一、音楽業界で知られていたのは、坂本龍一と同じく、東京芸術大学音楽学部打楽器科卒で、元ジャックスのメンバーだった木田高介(たかすけ)ぐらいだ。その木田高介は31歳の若さで1980年にこの世を去っている。かぐや姫の大ヒット曲「神田川」は木田高介のアレンジだった。
木田高介、坂本龍一という数少ない正式な音楽教育を受けたミュージシャンの他は、スタジオで楽器を演奏しながら、簡単なコード譜だけで、サウンドを決めてゆくヘッド・アレンジに頼っていた。1970年代中期のニュー・ミュージック・シーンでは、坂本龍一は黒船のような存在だったと言える。アレンジは凄いわ、キーボードを弾かせてもこれまた凄い。
実際、YMOが超人気バンドになるまで、坂本龍一の名は、アレンジャー、キーボード・ プレイヤー、プロデューサーとしてあらゆる楽曲に見られる。矢沢永吉の「時間よ止まれ」、南佳孝の「モンロー・ウォーク」、松任谷由実、小田和正、財津和夫が組んだシングル「今だから」、忌野清志郎と組んだ「いけないルージュマジック」…。企業CMも多 いし、その名が広く知られるようになってからは、1992年バルセロナ・オリンピック開会式のテーマソングも手掛けた。
初めて逢った1978年、「本当に凄い奴」と信じた
坂本龍一の死によって数多くの報道がなされている。ただ、その多くはYMO、映画『戦場のメリークリスマス』の音楽担当、1987年の映画「ラストエンペラー」でのアカデミ一作曲賞受賞といった部分だけが特にスポットライトを当てられている気がする。
でも、彼の偉大さはスタジオ・ミュージシャンとしての成功があったからこそなのだ。いわば下積み時代があったからこそ、メジャー・シーンに浮上できたのだ。
大貫妙子のディレクターだった信頼できるKさんのいう“凄い奴”、坂本龍一にぼくが初めて逢ったのは、1978年晩秋、彼が初のソロ・アルバム『千のナイフ』をリリースした時のインタビューだった。このアルバムを聴き、坂本龍一と逢って、ぼくも彼が“本当に凄い奴”と信じた。才気鋭く、突がっていて、自信に満ちた人。デビュー・アルバムのインタビューで、ぼくにそう思わせたのは坂本龍一が初めてだったと今は思う。
岩田由記夫
1950年、東京生まれ。音楽評論家、オーディオライター、プロデューサー。70年代半ばから講談社の雑誌などで活躍。長く、オーディオ・音楽誌を中心に執筆活動を続け、取材した国内外のアーティストは2000人以上。マドンナ、スティング、キース・リチャーズ、リンゴ・スター、ロバート・プラント、大滝詠一、忌野清志郎、桑田佳祐、山下達郎、竹内まりや、細野晴臣……と、音楽史に名を刻む多くのレジェンドたちと会ってきた。FMラジオの構成や選曲も手掛け、パーソナリティーも担当。プロデューサーとして携わったレコードやCDも数多い。著書に『ぼくが出会った素晴らしきミュージシャンたち』など。 電子書籍『ROCK絶対名曲秘話』を刊行中。東京・大岡山のライブハウス「Goodstock Tokyo(グッドストックトーキョー)」で、貴重なアナログ・レコードをLINN(リン)の約400万円のプレーヤーなどハイエンドのオーディオシステムで聴く『レコードの達人』を偶数月に開催中。最新刊は『岩田由記夫のRock & Pop オーディオ入門 音楽とオーディオの新発見(ONTOMO MOOK)』(音楽之友社・1980円)。