国内外のアーティスト2000人以上にインタビューした音楽評論家の岩田由記夫さんが、とっておきの秘話を交えて、昭和・平成・令和の「音楽の達人たち」の実像に迫ります。音楽家・坂本龍一の第3回は、1978年秋の初ソロ・アルバム『千のナイフ』のリリース時や、同年結成のイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)で売れた後の80年代前半に、筆者が直接逢ったころの思い出がつづられます。映画音楽も出がけ、ソロでも世界に活躍の場を広げる前に語った貴重な言葉の数々です。
「ぼくは音楽をアートにしたい」
『千のナイフ』と題されたデビュー・ソロ・アルバムがコロムビア・レコードからリリースされた1978年、ぼくは初めて坂本龍一と逢った。第一印象はハンサムな美青年、けれどもその面構えにはどこか不敵さがあった。『千のナイフ』というアルバムは、1978年の音楽シーンに於いては、ヒット狙いと呼べる内容では無かった。ぼくはこの作品に既存の音楽シーンに対する、カウンター・パンチのような感触を感じていたので、そのことを坂本龍一に訊ねた。
“他のミュージシャンの楽曲のアレンジやキーボードでバックアップする仕事では、そのミュージシャンの楽曲や演奏を最大限に引き出すことを求められるんですね。対してソロ・アルバムというのは自己発露の場だと思う。アレンジやスタジオ・ミュージシャンと異なるのが当たり前だと思うんです。売れなくていいと言ったら語弊があるかも知れないけど、ソロ・アルバムでは自分を譲ることは絶対にしたくありません。ぼくは音楽をアートにしたい。アート~芸術というのはどれもがただちに評価されるとは限りません。メジャーで売れなければ、自主制作しても自分のアートを貫く覚悟はあります”
とても一般的には無名なミュージシャンの発言にしては大胆だと思ったのを記憶している。ソロ・デビュー時から坂本龍一の心の中では、アレンジなど頼まれ仕事とソロ・ワークが区別されていたのだ。
『千のナイフ』のレコーディングは“頼まれ仕事”を終えた深夜
『千のナイフ』は延べ300時間以上、スタジオ・ワークが費された。昼間は他のミュージシャンからの頼まれ仕事をこなし、レコーディングは主に深夜に行なわれたと当時の担当ディレクターから聞いたことがある。そこには一切の妥協を許さない坂本龍一のアーティストとしての姿があった。イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)の成功で『千のナイフ』のセールスは伸びたものの、発表当時はヒット・チャートに登場することは無かった。
もしYMOでその名が売れなければ、坂本龍一はアレンジャー&スタジオ・ミュージシャンのままだったと思う。それでも彼は頼まれ仕事をこなしながら、そこで得たギャラを費してソロ・ワークを発表し続けていたと、初めてのソロ・アルバムでのインタビューでぼくは確信する。