国内外のアーティスト2000人以上にインタビューした音楽評論家の岩田由記夫さんが、とっておきの秘話を交えて、昭和・平成・令和の「音楽の達人たち」の実像に迫ります。音楽家・坂本龍一の第2回も、イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)以前の逸話です。1976年、シンガー・ソングライターの大貫妙子のレコーディングで、スタジオを訪れた筆者は坂本龍一が書いたアレンジ譜をディレクターから見せられ……。
YMO以前も、その力量は知られていた
坂本龍一はイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)でその名が広く知られるようになった。しかし、それ以前もコアな音楽ファンや業界関係者にはセッションマン、スタジオ・ミュージシャンとしての力量で、その名は知られていた。
彼の名が広まったきっかけは、シンガー・ソングライターの「りりぃ」のバックバンドを務めていた時、彼女のマネージャーが細野晴臣のマネージャーに“凄い奴がいる”と教えたことから始まる。細野晴臣が坂本龍一を認め、あの細野さんが推すミュージシャンならと、様々な音楽関係者が彼をスタジオ・ミュージシャンとして起用することに結びついたと言える。
アレンジ譜を実際に見た
大貫妙子の1976年のソロ・デビュー・アルバム『Grey Skies』で、ディレクターのKさんをその技量で唸らせた坂本龍一は、続く1977年の彼女のセカンド・アルバム『SUNSHOWER』では、全曲のアレンジ、プロデュースをKさんから任されている。Kさんは『Grey Skies』のラフミックス(レコードにするための本格的なステレオ・ミックスにする以前の仮のミックス・テープ)を聴かせてくれた時に、ぼくに坂本龍一は“凄い奴”と言った。
では、ディレクター経験豊富だったKさんが、何故坂本龍一を“凄い奴”と思ったのだろうか?
“坂本にアレンジを頼むと完璧な楽譜を書いてくるんだよ”とKさんはぼくに教えてくれて、坂本龍一の書いたアレンジ譜をぼくに見せてくれた。