本誌で料理写真を撮影しているカメラマン・鵜澤昭彦氏による温泉コラム。大間のマグロ漁船に乗るはずが、下北温泉へ行き、まさかの恐山温泉に方向転換。というわけで、今回は恐山温泉に入湯したお話です。
画像ギャラリー「あの世と現世の境目」恐山で見た景色とは
下北半島では「死ねばお山さ行ぐ」と一千年の長きにわたって伝えられてきた信仰と祈りの聖地恐山、俺も一度は行ってみたいと思っていたがまさかその時が今来るとは………。いくら能天気な俺もガチガチに緊張してきたのだった。
やや緊張気味にハンドルを握り、山道ではあるが比較的整備された道を上がったり下がったりして小一時間走ると恐山菩提寺の駐車場が現れてきた。その時、換気のために薄く開けた車の窓から、強い硫黄の匂いが漂ってきた。
「むせるような硫黄の香りだな」
「そうでガスね」
「いや、ガスはガスでも硫化水素の香りだけど」
「そうでゲスねぇ」
「……………」
駐車をしながら俺は「風ちゃん」に言った。
「どうやら、参拝するには入山券なるものをあそこで購入する必要があるみたいだよ」
俺は総門の近くにある受付所を指差した。
「今更なんだけど『風ちゃん』、俺さぁ、携帯で少し恐山について調べてから追いかけるよ。『風ちゃん』は先に参拝に行っておいでよ」
「親方、そうでやんすか? ではあっしはお先に失礼いたしやすよ」
なんでもネットで大急ぎに調べたら、まず恐山菩提寺は9世紀頃に天台宗の慈覚大師円仁により開山されたと伝えられているそうだ。境内周辺は活火山であるため硫黄の匂いが立ち込め恐ろしく荒涼とした地形で、参詣者は境内にある地獄に見立てた風景の中を巡りながら死者の成仏を願うのだとあった。ネット便利である。
思わず周りを見渡すと、隣接する宇曽利山湖がコバルトブルーに明るく輝き、とても現世だとは思えない。まるであの世の再現である。そう、ここは「あの世と現世の境目」なのだ。
俺は「風ちゃん」を追いかけるように、恐る恐る総門から境内に立ち入った。
死者に対する厳かな気持ちを胸に(ここ大事だからね)、参道をゆっくり歩き左手にある本堂でお参りし、また参道に戻り山門をこえ地蔵堂に向かった。まさにその時、参道右手に忽然と現れた建物を見て俺は愕然として立ち止まった。
なんと境内に温泉小屋が建っていたのだ。
境内に4つの温泉小屋が!
信じられないことに、境内で温泉に入れるらしいのである。
「あら〜っ、これはどー見ても温泉小屋だわ? 薬師の湯って書いてあるけど、なぜに境内に温泉が????」
またしても大急ぎで携帯を調べる俺。そして、その結果を頭の中で箇条書きでまとめた。
その1)境内に男湯、女湯、男女入替制、混浴の4つ(記述によっては5つ)の温泉小屋があり、いずれも掛け流しである
その2)浴室は簡素な作りで洗い場はない
その3)お湯は酸性が強く、湧き出る温度も高め(70°C)。もし熱かったら加水して入るべし
その4)硫黄臭が強いので、浴室窓はいつも開いている
その5)入山料を納めれば誰でも入浴可能だが、手拭いは自前、石鹸、シャンプー類は使用禁止
その6)混浴はあるが、邪な気持ちで入ったらバチが当たるとのこと
その7)元来は参拝する前に浴びる「清めの湯」で、昔は参拝者全員が入浴していたらしい
「なるほど、なるほど、これは風ちゃんを急いで呼ばないと!」。俺は急いでポケットから携帯を引っ張り出した。
「もしもし風ちゃん」
「あ〜っ、もしもし親方でありんすか。境内で携帯とは無粋でありますよ」
「いやぁ、風ちゃん、大変!! 温泉発見したんだけど」
「どこででゲスか?」
「境内だよ」
「4つあるらしいよ」
「なんとなんと、それは………入らなくてはならないでしょう」
「すぐ参るざんす」
しばらく待つと、地蔵堂の方から急足で近づいてくる「風ちゃん」が見えてきた。
「親方、よく発見しましたね! 風景に溶け込んでいて気づきませんでしたけど、ここの他にもいくつか建物があるみたいでゲスね」
「おお、そうなんだよ。とにかく入ってみないかね」
「良ぅガスが、あっしは手拭いを持ってないんでやんす」
「俺もだよ」
俺たちは急いで車に戻り、手拭いを片手にさらに小走りで薬師の湯に戻ってきた。
「さて、風ちゃん」
「へい」
「入ってみるかい」
「へい」
厳かに清い湯に現世の汚れが流れ落ちる!?
引き戸を横に開けるといきなり質素な脱衣場があり、縦長の浴槽がふたつ見えた。
奥が熱く手前が少し緩いのだろうか? とにかく入浴する準備だ! 洗面器でかけ湯して体を洗った。
そして「よし! 静かに、静か〜に」と気合を入れながら身体を湯の中にゆっくり潜らせた。
肩まで湯に浸かった俺は「あぁ」と思わず声を出した。
「風ちゃん! これはすごいぞよ。とてつもなく鮮烈な湯だ!!」
湯が全く身体の表面にまとわりつかないのだ。
「親方、魂が口から半分出てますよ」
「危ない、危ない! あんまり気持ちよくって幽体離脱するところだったぞ」
「究極のサッパリ感! まさにまさに、温かいのに静かさを感じる湯でやんす。心が鎮まるでございまする」
薄いコバルトブルーに透きとおるそのお湯は、数々の硫黄泉に入ってきた俺ですら、全く今まで味わったことがない強烈な酸性の湯で、現世の汚れをスパッと払い落としてくれそうだ。
「これを参拝前に浴びたわけだな!」
「親方、厳かに清い湯とも申しましょうか、頭の先から爪先までがサッパリいたします」
「俺、なんだか解脱しそうだ」
「親方、そんなに簡単にできますかって!(笑)」
「そりゃそうだけどさぁ(笑)」
参詣の人が他にいなかったこともあり、俺たちはゆっくり湯に浸かり現世の汚れを完全に洗い流したような気分になった。
「親方! これであっしらは晴れて真人間でやんすね」
「風ちゃん、それ言い過ぎだって」
「(笑)」
その後、俺たちは着替えて地蔵堂をお参りし、境内をひと通り見学した。他の温泉巡りも考えたが、正直一湯でもう十分な感じだった。そこで他の湯は再訪した時にとっておこうという話になり、山門で一礼して寺を後にした。
静かに時間が流れるこの恐山の空の下、駐車した車に向かう間俺は「風ちゃん」に感想を聞いてみた。
「どうだった『風ちゃん』?」
そしたら彼はポツリと言った。
「親方、わざわざこちら恐山に寄ってもらいやして、ありがとうございました。本当に心が洗われやした。いろいろ思うところはありますが、いずれにしても、現代人はこの温泉に浸かって死者を敬う清らかな気持ちをもう一度認識してもらいたいんでガス。この場所はそういう厳かな場所でありんすよ」
たまにはいいこと言う師匠でありました。
「珍しく意見が同じだよ! 俺もそう思う」
コバルトブルーに鈍く輝く宇曽利山湖を横目に見ながら俺は小さくつぶやいた。そして、恐山を後にした俺たちは次の目的地である下風呂温泉へと向かったのだった。
取材・撮影/鵜澤昭彦
画像ギャラリー