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バブル経済崩壊、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件など、激動の時代だった1990年代。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルから切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」は、30年近い時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。

この平成の名エッセイのベストセレクションをお送りする連載の第70回は「真夜中の伝言について」。

自分で書いたホラー小説に怯える

全国縦断サイン会の最中、どこの会場でも気になって仕方のないことがあった。

会場となる書店には拙著のバック・ナンバーがある程度は揃えてある。ということは当然、何冊かの本を携えて列に並んで下さる読者がいる。著者としては、その組み合わせがどうとも気になって仕方がないのである。

ふつう小説家というものは、だいたい統一性のある世界を持ち、思想なり作風なり設定なり、固有のアイデンティティーを保っているものなのであるが、私にはてんでない。

書きたいものを書きたいように書き続けた結果、こんなことになってしまった。

で、たとえば『蒼穹の昴』と『プリズンホテル』をつごう6 巻、デンと机の上に差し出され、サインをする段になると、私はアセる。

おそらく読者の考えとしては、「読みごたえのありそうな長い物から読もう」ということなのであろうが、実はこの両者、自民党と共産党なのである。続けて読めばまちがいなく議会は紛糾する。

そこで、サインをしながら妙な言いわけをする。

「あのう、なるたけ間を置いて読んでもらえますか」

「できれば先に、『勇気凜凜ルリの色』というエッセイ集がありますので、それを読んでから」

「ちょっと分裂症の気味がありますので、ご承知おき下さい」

40も半ばを過ぎたことであるし、そろそろスタイルを決めねばならぬと反省しきりである。

そもそもこの無節操さは何に起因するのかというと、子供の時分からの読書傾向が極めて散漫であったということに尽きる。今でもインタヴュー等で、「どういう作家が好きか」と訊かれると困る。即座に答えられないのである。

谷崎も荷風も好きなんだけど、吉川英治も柴錬も大好きで、シェイクスピアもいいけどカポーティもメイラーもいい。梶山季之、川上宗薫はほとんどオタク、黙阿弥サイコー、バタイユはいまだに虜(とりこ)である。

つまり、「どういう作家が好きか」という問いは、「どういう女性が好きか」という質問と同じくらい困るのである。

かくて公私ともに著しく節度をわきまえぬ人間となった。

ところで、ただいまゲラ校正中の小説は「ホラー」である。正しくは「時代回顧青春恋愛怪奇友情小説」というべきであろうが、版元ははたしてどういうオビをつけるのか興味深い。

この小説、甘くせつなくロマンチックなのであるが、けっこうコワい。遠い昔に撮影所のスタジオの梁で首をくくった大部屋女優の霊が、セリフを下さい~~と言いながらあちこちに現われ、エキストラのアルバイト学生にとり憑くのである。

私は原稿を書きながら、てめえの書いた話にハマるという悪い癖がある。泣いたり笑ったり、怒ったり欲情したりするのであるから、当然ホラーを書いていると怯(おび)える。

だから、この『活動寫眞の女』という、タイトルだけだってかなりコワい小説は、なるたけ昼間に書いた。ゲラ校正も昼間にやろうと思っていたのだけれど、サイン会の押しとイタリア旅行の前倒しとで時間の余裕がなくなり、夜中にまで持ち越さねばならぬ羽目になった。

執筆中もコワかったが、ゲラ校正はもっとコワい。原稿が活字になり、客観的に読んじまう分だけさらにコワいのである。

まさかコワいから起きていてくれと家人には言えず、娘に「たまには徹夜で勉強をしなさい」と諭したがアッサリと裏切られ、致し方なく3匹の猫を書斎に閉じこめて、深夜のゲラ校正にとりかかった。

しとしとと夜来の雨の降る、生ぬるい晩であった。裏山の竹藪に風が鳴っていた。

行きましょ、忠昭さん、と伏見夕霞は彼の手を引いた。そのとき夕霞が彼の体を通り抜けて前に出たように見えたのは、酔った目の錯覚だろうか。

着物の襟からすっと抜き上がったような白い横顔は、もうあなたたちは関係ないの、とでも言っているようだった。

「待てよ。三日も家に帰っていないって、どこにいるんだ」

「それは決まっているだろう。彼女の家さ」…………。

こ、こ、こわい。十分にコワがりながら、さらにコワくしてやろうと赤を入れるペン先が呪わしかった。

時計は真夜中の2時をさし、猫どもは眠ってしまった。

場面はさらなるクライマックスに入り、私は何とか気分転換を計ろうと思い立った。そうだ、来週インタヴューに来るY新聞社に、自宅の道順のファックスを入れておこう。

安直にそう考えたのがいけなかった。

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おとなの週末Web編集部 今井
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