深夜の仏間に流れる、女の恐ろしい声
最寄駅からの地図を書き、リビング・ルームに向かった。真夜中のこととて必要最小限の灯りをつける。版元の紹介で購入した巨大ファックスは、まずいことに仏間に設置されている。デカすぎて他に置場がなかったのである。しかも、仏間には先日の消費税率値上げの折にあわてて購入しちまった電動式巨大仏壇がデンと置かれている。
日ごろから信仰心に欠け、自分がいつか死ぬことすらも信じていない私にとって、巨大仏壇は存在そのものが一種の恐怖である。
なぜか真夜中でも低い唸り声を上げ続けているファックスに地図をセットし、伝言メモに殴り書いた番号を押した。
パペピプペポ、という無機質のダイヤル音に続いて、プルルル、という呼音。真夜中にも勝手に原稿を送りつけることのできるファックスとは、何と便利なものであろう。
これでよし、と仏間を出かかって、私はいきなり低い女の声に呼び止められた。
「……ご遺体のご処置につきましては、以下の病院にご連絡下さい……」
しめやかな電話の声が、たしかにそう言った。闇の中で、私は石になった。
女の声は都内の病院の名を、ゆっくりと、ひとつずつ呟く。
メッセージが終わると、しばらく間を置いてから意味不明の雑音が聴こえ、再び同じ声。
「……ご遺体のご処置につきましては、以下の病院にご連絡下さい……」
とりあえずは思いつく限りの灯りという灯りを全部つけた。電話機をあれこれといじくり回し、ファックスのクリアー・ボタンを押す。しかし、しめやかな女の声は際限なく繰り返された。
「……東京大学附属病院……日本大学板橋病院……慶応大学附属病院……」
遺体の処置について連絡せよという病院の電話番号を、低い、しめやかな女の声は綿々と囁き続ける。パニックに陥ったまま、ファックスの取扱説明書をめくり、ボタンというボタンを押しまくった。メッセージは止まらない。
「……ご遺体のご処置につきましては、以下の病院にご連絡下さい……」
突然、仏壇の扉スーツと開き、灯明がつき、お経のテープが流れた。
混乱のあまりファックスのボタンに続いて電動式仏壇のボタンまですべて押しちまったのであった。
「あーあー、何なんだよー、どーなってんだよー、ご遺体の連絡先って、何なんだよー」
おろおろと床をはいずり回る私の背を、細い女の指先が叩いた。心臓がたしかに一度止まった。
おそるおそる振り返ると、ナゼか理科系クラスの娘が呆れ果てた顔で立っていた。ぶ厚いメガネの底から、蔑さげすんだ目を父に向ける。
「るさいわね。なにしてるの?」
私は慄える指先をファックスに向けた。考える間もなく、娘は言った。
「アイ・バンクの留守電。光と愛の事業団って、きっと新聞社の関連なのよ。番号まちがえたのね」
ピッポッパ、と軽やかにボタンを押し、娘は屋根裏へと帰って行った。
「仕事しすぎよ、パパ。アイ・バンクに登録しておいた方がいいわ」
そうしようかと、私は真剣に考えた。
(初出/週刊現代1997年6月7日号)
浅田次郎
1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。