ドイツ強し!の報に特別列車で競技場へ向かうが……
さて、バーデン・バーデンに結集した22ヵ国の選手団は、2日間の練習ラウンドののち、抽選によって2チーム4人がスタートしていった。2人の打数が合計されるとあって責任重大、お互いに相談し合いながらも緊迫したゲームが続いた。
主催国のドイツでは、当時ゴルフが最もマイナーな競技とされた。ところがハンス・リッター、クルズ・ロハの両選手はイギリス留学中、ほとんどゴルフ以外学ばなかったといわれるほどの名手だった。その証拠に、ハンスの3日目までのスコアが「78・81・75」であり、クルズも負けじと「77・74・78」の好成績。これは当時の道具とコース状況からして、プロはだしと呼べるスコアである。
「ドイツのゴルフチーム、強し!」
連日の新聞報道に、最も驚いたのが当のドイツ国民だった。
「エッ! わが国にもゴルファーがいたのか!?」
にわかに視線が「黒い森」に集中すると、そこは希代の目立ちたがり屋ヒトラーのこと、好機見逃さず即座に立ち上がった。
「特別列車を用意せよ。明日の表彰式に出席して、私からトロフィーを与えよう」
オリンピックで国内輸送が火だるま状態だというのに、いきなり特別列車の運行を命じたから大変、一夜のうちにダイヤの大改正が行われ、数千の警備兵が線路脇に配される騒ぎとなった。さて、最終日。好調ドイツチームと対戦したのが5打差で追う2位のイギリスチーム。もし多少なりともヒトラーにゴルフの知識があれば、5打差などなきが如し、片方がバーディで片方がボギーだった場合、1ホールにして瞬時に4打も縮まると理解できただろうに、そこが素人の哀しさ、5打は安全圏と踏んだのである。
イギリスチームの2選手は、心臓に剛毛が生えたような男たちだった。トーマス・サークスはヨークシャーの出身。難コースで知られるブリッドリントンGCのハンディが1、クラブ選手権に優勝すること6回、1932年にはヨークシャー・アマ選手権にも優勝している。今回の取材中に判明したことだが、彼の孫のアンドリュー・サークスも同クラブに健在、ハンディ3の腕前だった。
「祖父は、いつもオリンピックの話をしていました。自分のゴルフ人生の中で、あれほど愉快な勝利はなかった、家族の誰かに見てもらえなかったことだけが残念だと言っていました」
孫のアンドリューは、最終日の1打ずつ祖父から克明に聞かされたので、すべて諳じていると哄笑した。
もう1人の選手、アーノルド・ベントリーはランカシャーの出身。こちらもヘスキスGCでハンディ1、クラチャンになること5回、1935年にはランカシャー・アマ選手権に優勝している。また両氏ともに全英アマの常連であり、名門サニングデールで行われる「グリーンサム・マッチ」では、3度にわたってペアを組んでいる。つまり息の合ったコンビであり、恐らく余裕綽綽、
「前半は軽く流していこうぜ」
この程度の戦いぶりだったに違いない。ゴルフでは、僅差で追いかける者に7分の利があるとされる。
翌朝、約十名の将官クラスを従えて特別列車に乗り込んだヒトラーは、チョコレートに手など伸ばしながら至極上機嫌だった。と、そこに連絡士官がやってきて、9番ホール終了時点でイギリスチームに並ばれたと報告する。
「何!? その情報に間違いはないのか、列車を止めて確かめろ!」
クリートハーゲンに臨時停車すると、ヒトラーはせわしなく駅のホームを往復し続けた。そこに致命的な報告がもたらされる。
「ざ、残念ながら、わがドイツチームは3打及ばず、敗れ去りました」
次の瞬間、顔面を朱に染めたヒトラーは、ドイツ・ゴルフ協会のフォン・ヘンケル会長にトロフィーの授与を命じると、そのまま列車ごとバックさせてベルリンに戻っていった。彼にとって、生涯拭えない屈辱の後退だった。
(本文は、2000年5月15日刊『ナイス・ボギー』講談社文庫からの抜粋です)
夏坂健
1936年、横浜市生まれ。2000年1月19日逝去。共同通信記者、月刊ペン編集長を経て、作家活動に入る。食、ゴルフのエッセイ、ノンフィクション、翻訳に多くの名著を残した。毎年フランスで開催される「ゴルフ・サミット」に唯一アジアから招聘された。また、トップ・アマチュア・ゴルファーとしても活躍した。著書に、『ゴルファーを笑え!』『地球ゴルフ倶楽部』『ゴルフを以って人を観ん』『ゴルフの神様』『ゴルフの処方箋』『美食・大食家びっくり事典』など多数。