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パジェロ、篠塚、パリ・ダカ

篠塚さんがラリーに復帰したのは、1986年のパリ・ダカールラリー(以下パリ・ダカ)。俳優の夏木陽介さん(2018年、享年81)が、『チームシチズン夏木』のドライバーに篠塚さんを抜擢。初代パジェロで世界一過酷なラリーと言われたパリ・ダカに初挑戦し、総合46位で完走。夏木さんが『チームシチズン夏木』の監督業に専念となった1987年には総合3位、1988年には総合2位とプライベートチームの篠塚さんは、本家三菱ワークスを凌駕する結果を残した。これにより、『パジェロ、篠塚、パリ・ダカ』がセットで一般人にも定着した。

篠塚さんがパリ・ダカでドライブした初代パジェロは、ライセンス生産していた三菱ジープに代わるオフロード4WDとして開発が進められ、ジープ生産により培った技術を集結させて1982年にデビュー。

初代パジェロは武骨さと愛くるしさが同居。写真の左上にあるのが初代をベースとしたパリ・ダカ用マシン

初代パジェロはデビュー時から高いポテンシャル持ったオフロード4WDと自動車評論家、ラリードライバーから評価は高かったが、販売は芳しくなかったという。それは当然で、今のようなSUVブームでもないし、必要に迫られて悪路やオフロードを走るという人はいても、好んで走る人はほとんどいない時代だったから。オフロード4WD車はクロスカントリーを略してクロカンと呼ばれていたが、一般受けするクルマではなかった。

またトヨタのランドクルーザーが1951年デビューであるのに比べると歴史は浅い。その新参のパジェロが世界各国で支持されるようになったのは、パリ・ダカでの活躍を抜きには語れない。パリ・ダカで高いオフロード性能、信頼性を証明して見せた。特に日本では篠塚さんの存在が大きい。

これには1985年からNHKがパリ・ダカを放映開始したのも見逃せない。それまで専門誌くらいしか扱わなかったパリ・ダカをTV放映したことで、一気に知名度がアップ。結果論だが、篠塚さんは最高のタイミングでパリ・ダカに参戦したということになるだろう。

1991年に日本自動車研究所のテストコース(茨城県)、通称谷田部で篠塚さんのパリ・ダカマシンと記念撮影した当時24歳の若造だった筆者

2代目パジェロはクロカンブームをけん引

パリ・ダカでの活躍により一気に知名度を上げた初代パジェロだが、日本でバカ売れしたかというとそうではなかったと思う。私もパジェロの凄さは見聞きしていたし、パリ・ダカでの活躍も知っていたが、個人的には興味の対象ではなかった。私の周りを見る限り、10代、20代の若者を熱狂させるクルマではなかったと思う。

2代目パジェロはオフロード性能は当然ながら、初代のイメージを踏襲しながらもデザインが洗練されたこと、質感と高級感が大幅にアップしたことも人気の要因

しかし2代目パジェロが登場して一変!! 2代目パジェロがデビューしたのは1991年1月。1989年は日産フェアレディZ、日産GT-R、ユーノスロードスターなどが登場した日本クルマ界のビンテージイヤーと呼ばれているが、その一方でトヨタハイラックスサーフ、トヨタランドクルーザー80、日産テラノといったクロカンが若者の間でもジワジワと人気となっていた。そして2代目パジェロのデビューが決定打となり日本でクロカンブームが勃発した。今思い出しても凄い人気だった。当時クロカンというだけで売れたが、若者の間では2代目パジェロとハイラックスサーフが人気の双璧だったと記憶している。

2代目パジェロがデビューした1991年といえば、私が社会人になった年。大学次回から引き続き渋谷でよく遊んでいた。1980年代中盤以降から渋カジブームが続いていて、紺ブレ、リーバイス501、AVIREX、RedWingの靴などが流行っていた渋谷で、『BANDIT(バンディット)』と呼ばれるクロカン4WDチームが幅を利かしていた。RUN DMCを大音量で流し、渋谷の公園通りを徘徊していて、今思えばガラが悪く、迷惑行為なのかもしれないが、カッコいいと憧れた。今考えると恥ずかしくなるが、あれを見て2代目パジェロが欲しくなった。

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パリ・ダカで日本人初優勝!!...
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市原 信幸
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