秀頼の成長を願った
加藤清正は、朝鮮出兵以来石田三成との対立が顕著となり、関ヶ原の戦いでは家康側につき、東軍の九州平定でも活躍します。そのいっぽうで秀吉の遺児である秀頼が無事に成長するよう、ほかの誰よりも腐心しました。
関ヶ原の戦いに勝利して征夷大将軍になった家康は、4年後には息子秀忠に将軍職を譲り、静岡・駿府城で大御所として実権を握っていました。家康に残された最大の仕事は、豊臣家をどうするか。つぶしてしまうのか、一大名として生かしておくのかということでした。
歌舞伎にもなった二条城の会見
大坂方は秀頼の母である淀殿を筆頭に、本来家康は秀頼の家来であり、政権を簒奪(さんだつ)した裏切り者だと見ていました。また、加藤清正や福島正則、前田利長、浅野幸長といった豊臣恩顧の大名がまだ存命でもあり、家康の言うことは聞くが、秀頼には指一本触れさせないという雰囲気も濃厚でした。
家康は、自分のほうが秀頼よりも上位であることをはっきりさせるため、秀頼に上洛を求めましたが、淀殿の強硬な反対で実現しません。二度目の要請も断ろうとする淀殿を加藤清正をはじめ、豊臣恩顧の大名たちはこのままでは戦争になると淀殿を説得し、清正が「自分の命にかけても秀頼を守るから」と言って、ようやく会見にこぎつけます。これが慶長16(1611)年の二条城会見です。その時の加藤清正の決意と行動は、歌舞伎の『二条城の清正』にもなっています。
短刀を懐に入れて
清正は、秀頼の身に万が一何かあれば家康と差し違えるべく、短刀を懐に、秀頼の後見人として会見に同席したのです。この直後、50歳でこの世を去った清正にとって、まさに人生最後の晴れ舞台だったといえるでしょう。
おそらく清正は、堂々たる体躯の秀頼の姿を見せることで、豊臣家の安泰をアピールする狙いがあったのだと思います。実際、秀頼は、口上も仕草も実に立派な18歳の若者でした。それがかえって69歳の徳川家康をして、「自分が死ねば再び豊臣の天下になってしまうかもしれない」という危惧を抱かせ、その結果が後の大坂攻めとなったのは、皮肉なことでした。