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『その時歴史が動いた』や『連想ゲーム』などNHKの数々の人気番組で司会を務めた元NHK理事待遇アナウンサーの松平定知さんは、大の“城好き”で有名です。旗本の末裔で、NHK時代に「殿」の愛称で慕われた松平さんの妙趣に富んだ歴史のお話をお楽しみください。

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藤沢周平が描いた“海坂藩”

山形の鶴ヶ岡城は現在天守もなく、わずかに堀と石垣が残るだけですが、鶴ヶ岡城を本庁とした庄内藩は、さまざまなドラマを生みました。歴史小説好きの方なら、庄内地方に生まれた藤沢周平が描いた“海坂(うなさか)藩”のモデルだと思い起こされるかもしれません。城趾は鶴岡公園として整備され、日本さくら名所100選に選ばれていますので、桜が開花する4月中旬以降に訪ねるといいかもしれません。

鶴ヶ岡城を築いたのは酒井忠勝です。家康が特に信頼を置いていた武将を徳川四天王といいますが、そのなかでも筆頭の地位にあったのが酒井忠次です。酒井忠次は小牧・長久手の戦いで秀吉を手こずらせるなど武勇にも優れ、秀吉から従四位左衛門督に任じられています。その孫が酒井忠勝。彼が庄内に封じられたのは、関ヶ原合戦後、常陸から秋田(当時は久保田)に転封された佐竹氏の抑えという意味もありました。以来、酒井氏は明治維新まで庄内の地を治め続けました。彦根の井伊家とともに、徳川家を代表する藩屏です。

山形県鶴岡市の街並み Photo by Adobe Stock

庄内藩による薩摩藩邸の焼き討ち

時は流れ文久3年(1863年)、庄内藩11代藩主・酒井忠篤(ただずみ)が、江戸市中取締役に任命されます。当時は薩摩藩が幕府への軍事攻撃のきっかけを狙って、放火や強盗などで盛んに江戸の町を荒らし回っていました。堪忍袋の切れた庄内藩は、薩摩藩邸を焼き討ちしてしまいます。これをきっかけに、鳥羽伏見の戦いが起き、戊辰戦争にいたるのです。

これによって、庄内藩は会津藩とともに朝敵とされ、戊辰戦争では討伐の対象とされました。しかし庄内藩は奥羽越列藩同盟を結成し、酒田の豪商・本間家の豊富な資金をもって最新の銃器を手に入れ、官軍に対抗しました。米沢藩、仙台藩、そして会津藩が次々に降伏していくなか、庄内藩は一度も負けることなく、官軍を恐れさせました。しかし、結局庄内藩は孤立無援のかたちとなり、明治元年(1868年)、降伏を余儀なくされます。

鶴ヶ岡城の堀 Photo by Adobe Stock
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松平定知
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