西郷に心酔した
当然、庄内藩には厳罰が予想されましたが、結果は意外なものでした。会津藩が23万石から下北・斗南3万石へと大減封されたのに対して、庄内藩は17万石から12万石に削られただけでした。これには、新政府の運営資金の一部を西郷が、前述の庄内藩の豪商・本間家の富に頼ろうとしたから、という説もありますが、庄内藩を代表し、堂々と西郷と交渉した菅実秀(すげさねひで)という人物の存在が大きいものでした。
交渉の過程で、菅と庄内藩は西郷に心酔していきます。その結果、明治3(1870)年には藩士70余名を鹿児島に留学させたほか、西郷が起こした西南戦争では、わざわざ志願して西郷とともに戦った旧庄内藩士も少なくありませんでした。
旧庄内藩の人々による名誉回復運動
西郷隆盛という人物の思想を知るうえで、『西郷南洲翁遺訓(さいごうなんしゅうおういくん)』はきわめて重要です。我々もよく知る「敬天愛人」や「命もいらず、名誉もいらず、官位も金もいらぬ人は手に負えぬもの」といった西郷の言葉や教えは、このなかに収められていますが、これは西郷の著作ではなく、藩主の酒井忠篤や藩士の菅実秀をはじめ、庄内の人々が西郷と接した時の言行をまとめたものです。
薩摩ではなく、敵方だった庄内藩からその言行録が出ているとは、歴史とは実に面白いものです。西郷は西南戦争に敗れ、賊軍の将として官位を剥奪されますが、明治23(1890)年、大日本帝国憲法発布に際した恩赦で、名誉回復を果たしました。その際、誰よりも運動したのは、旧庄内藩の人々でした。