熊本城に戻る船中で急死
清正は、秀頼を無事に大坂城の淀殿に送り届けた後、熊本城に戻る途中の船で急死しました。
遺言や辞世の句もないほどの突然の死で、一説には徳川方が毒を盛ったともいわれますが、清正の死以降も、豊臣恩顧の大名が次々に亡くなり、家康は大坂冬の陣、夏の陣に突き進むことになります。
【熊本城】(別名・銀杏城[ぎんなんじょう])
大坂城、名古屋城とともに日本三名城のひとつ。東京ドーム21個分98万平方メートル、周囲5.3kmという広大な敷地に大小の天守閣と櫓19、櫓門18、城門29を備える。慶長6(1601)年に加藤清正がこの地にあった隈本城を改修し、築城。明治10(1877)年の西南戦争では西郷軍の猛攻に耐え、その強固さが証明された。籠城戦に備えて加藤清正が食糧確保に備えて植えた銀杏から別名銀杏城の名前がある。(平成28年の地震で大きな被害を受け、復興中で立ち入り制限区域があります)
住所:熊本市中央区本丸1‐1
電話:096ー352ー5900(熊本城総合事務所)
■本丸御殿
古文書や発掘調査によって築城当時を復元した本丸御殿。熊本城築城400年を記念し、2012年に完成した。漢の時代の悲劇の美女、王昭君(おうしょうくん)が描かれた昭君之間(しょうくんのま)は「将軍の間」の隠語で、豊臣秀吉の遺児である秀頼を熊本城に招き入れるために作ったといわれる。
■武者返し
近江国から加藤清正が連れてきた自然石を積み上げる専門集団「穴太衆(あのうしゅう)」が築いた熊本城の石垣。上にいくに従って勾配がきつくなる特徴を持ち、武者返しと呼ばれる。下部は約30度で上部はほぼ垂直となる。
【加藤清正】
かとう・きよまさ。1562~1611年。秀吉とは遠縁の親戚にあたり、秀吉と同じ尾張の中村に生まれる。秀吉の妻おねに福島正則らとともに育てられる。賤ヶ岳の合戦で七本槍に数えられる活躍を見せる。秀吉の九州平定で肥後北半国を与えられ、治山治水に努め領民から愛された。朝鮮出兵では虎退治をした逸話が残るほどの活躍を見せるも、石田三成と対立し、豊臣政権崩壊の遠因を作る。関ヶ原合戦後は秀吉の遺児、秀頼を支え、秀頼と家康が二条城で会見する際は、秀頼の身に何かあれば、家康と差し違える覚悟だったとされる。なお清正はセロリを朝鮮から持ち帰ったとされ、「清正人参」はセロリの別名だ。
松平定知 (まつだいら・さだとも)
1944年、東京都生まれ。元NHK理事待遇アナウンサー。ニュース畑を十五年。そのほか「連想ゲーム」や「その時歴史が動いた」、「シリーズ世界遺産100」など。「NHKスペシャル」はキャスターやナレーションで100本以上担当。近年はTBSの「下町ロケット」のナレーションも。現在京都造形芸術大学教授、國學院大学客員教授。歴史に関する著書多数。徳川家康の異父弟である松平定勝が祖となる松平伊予松山藩久松松平家分家旗本の末裔でもある。
※『一城一話55の物語 戦国の名将、敗将、女たちに学ぶ』(講談社ビーシー/講談社)から転載
※トップ画像は「Webサイト 日本の城写真集」