「皇室専用の駅……!?」、と聞いて、「そのようなものが存在するのか?」と思われた方もいることだろう。実は今でもJR山手線の原宿駅近くには、通称「宮廷ホーム」と呼ばれる皇室専用駅がある。このような専用駅は、明治の時代からいくつか存在した。多摩御陵の最寄りにあった「東浅川宮廷駅(ひがしあさかわきゅうていえき)」も、そのうちの一つだった。多摩御陵とともに設けられた皇室専用駅の歴史と背景について、ひも解いてみたいと思う。
画像ギャラリー「皇室専用の駅……!?」、と聞いて、「そのようなものが存在するのか?」と思われた方もいることだろう。実は今でもJR山手線の原宿駅近くには、通称「宮廷ホーム」と呼ばれる皇室専用駅がある。このような専用駅は、明治の時代からいくつか存在した。多摩御陵の最寄りにあった「東浅川宮廷駅(ひがしあさかわきゅうていえき)」も、そのうちの一つだった。多摩御陵とともに設けられた皇室専用駅の歴史と背景について、ひも解いてみたいと思う。
霊柩列車の専用駅
大正天皇が1926(大正15)年12月25日に亡くなると、関東圏に陵墓が造られることになり、東京近郊にある御料地(皇室が所有する土地)のうち、皇居からもそう遠くなく、鉄道の利便性のある場所として、現在の八王子市にあった御料地の一部が「陵墓地」として選定された。
当時は、中央高速道もなく、甲州街道(現・国道20号)と省線中央線(鉄道省が運行していた現在のJR中央線)しか交通手段がなかった。結果、大正天皇の亡骸を多摩陵に埋葬する際には、鉄道を利用することになり、武蔵陵墓地の近傍に、いわば”霊柩列車のための専用駅”を建設するに至った。
皇室専用駅として開設
現在のJR中央線の西八王子駅と高尾駅の間に建設された「東浅川宮廷駅」は、大正天皇が埋葬される前日の1927(昭和2)年2月7日に開設された。正式名は「東浅川仮停車場」といったが、関係者の間では通称「東浅川宮廷駅」の名で呼ばれた。
当時の高尾駅は「浅川駅」という駅名だった。皇室専用駅は、この駅の東に位置することから、「東浅川」と命名された。駅舎は、御陵に隣接するにふさわしい“社殿造り”で建設された。御陵の最寄り駅として、一般の乗客が多摩陵を参拝するにも便利な駅だったのだが、その後も一般の駅として使用されることはなかった。
貞明皇后の大葬でも使用
大正天皇の大葬(葬儀)後は、昭和天皇や香淳皇后、そして当時の皇太后であられた貞明皇后が墓参の際、年に数回使用するだけとなっていた。先の大戦中の空襲被害もなく、戦後を迎え、1951(昭和26)年5月に貞明皇后が亡くなられると再び、霊柩列車を迎えることになった。しかしながら、貞明皇后の葬儀後は一度も使用されることなく、1960(昭和35)年9月10日に廃止された。
廃止後、駅舎建物は1962(昭和37)年に八王子市へ譲渡され、1964(昭和39)年の東京オリンピックでは自転車競技の事務所として使用された。今でも駅舎跡地には、「オリンピック東京大会 自転車競技この地で行なわる(原文ママ)」と記された石碑が残されている。その後は、八王子市の集会施設「陵南会館」へと転用された。
テロの標的に
時代が昭和から平成にかわったころ、平成の即位の礼(1990(平成2)年11月)に反対する過激派により、すでに陵南会館となっていた旧東浅川宮廷駅もテロの標的となった。仕掛けられた爆弾装置によって、同年10月9日に旧駅舎は焼失した。その後は、解体され更地となっていたが、現在は東浅川保健福祉センターの第二駐車場として活用されている。
近い将来、JR高尾駅は橋上駅として生まれ変わる予定で、北口にある“社寺風の駅舎”がこの東浅川宮廷駅跡地に移築保存される計画になっている。この社寺風の駅舎は、かつて大正天皇の大葬の礼(ご葬儀)の際に、新宿御苑(東京都新宿区)に建設された葬場殿(葬儀場)に隣接して設けられた「新宿御苑仮駅」の駅舎を移築した由緒ある建物だ。この当時の仮駅から出発した霊柩列車の目的地が「東浅川宮廷駅」という、なんとも運命的な話へとつながるのであった。
文・写真/工藤直通
くどう・なおみち。日本地方新聞協会皇室担当写真記者。1970年、東京都生まれ。10歳から始めた鉄道写真をきっかけに、中学生の頃より特別列車(お召列車)の撮影を通じて皇室に関心をもつようになる。高校在学中から出版業に携わり、以降、乗り物を通じた皇室取材を重ねる。著書に「天皇陛下と皇族方と乗り物と」(講談社ビーシー/講談社)、「天皇陛下と鉄道」(交通新聞社)など。