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作家・椋鳩十(むく・はとじゅう、1905~87年)の生誕120周年を記念した特別企画展『椋鳩十 それぞれの顔』が、鹿児島市の「かごしま近代文学館文学ホール」で開催されている。今回、孫にあたる久保田里花さんが、祖父・椋鳩十の素顔について原稿を寄せてくれた。野生動物を題材とした作品で知られ、数々の教科書にも作品が掲載されている椋鳩十は、反戦の人でもあった。

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戦前、初期の作品は発禁処分を受けた

「力いっぱい、生きているものは愛おしいなぁ」

野鳥がたくさんやってくるようにと実のなる木ばかりを植えた庭で、祖父はまるで「ハイジ」のアルムじいさんのように、野に生きるものたちの話をよくしてくれた。小鳥のさえずりも、枝に揺れるミノムシもクモの糸も、祖父といると、なぜかキラキラと輝いて見えた。『じねずみの親子』『とかげのしっぽ』など、庭でいっしょにみつめた生き物のことも、祖父は物語やエッセイに書いている。

動物児童文学作家として知られる祖父・椋鳩十。狩人とガンとの闘いを描いた「大造じいさんとガン」は70年以上、小学校の国語の教科書に掲載されている。

「戦時中、15編ほど動物ものを書いたばかりに、動物児童文学作家のレッテルを貼られてしまったよ。出版社からの注文は動物ものばかりになってしまったからなぁ」
祖父は家で時々、冗談交じりにこう口にした。

長男とモデルの犬、マヤ

南信州の自然豊かな地で祖父は生まれ育った。大学卒業後、20代の祖父は窮屈になっていく時代の空気に抵抗するように、山で自由奔放に力強く生きる人々を描いた小説『山窩調』(さんかちょう)で作家デビューした。期待の新人と評されたが、戦争へ向かう時局と反する内容だと発禁処分を受けてしまう。若い人が次々と兵隊にとられ、潔く死ぬことは名誉だと「死」が賛美される時代。作家も戦争協力のものしか書くことが許されなくなっていた。

自分の意に反したものは書けない…。思い悩んだ祖父は子どもたちに向けて、人間の物語としては書けなくなった親子の愛情や命の大切さを、動物の生きる姿に託して書き始めた。執筆のために虫から小動物まであらゆる生き物を飼い観察したという。人間に飼われると虫さえ野生を失う。野生の姿を誰より知るのは狩人たちだと取材してまわった。

昭和37年12月28日から1月3日 イノシシ野獣の取材 栗野岳の狩人・桐原正春氏 

「大造じいさんとガン」も狩人から聞いた話を元にした。生活の規制が厳しさを増し、自由な発言もできなくなった昭和16年11月、真珠湾攻撃の1か月前に発表した作品だ。気高いガンの生き方に感動する狩人を通して、立場が違ってもまっすぐに生きるもの同士、理解し尊敬しあう姿を描いた。命がけで子どもを守ろうとする母親の強い愛情や、懸命に生きる動物たちを時局に流されずに書き続け、日本になかった「動物児童文学」のジャンルを築き上げた。戦争中に書いた物語の主人公の動物たちは、どんな困難が襲っても決して死なない。これも祖父の「生」へのメッセージだったのだろう。

戦後は焼け野原となった鹿児島県立図書館長も務めた。親子の愛情を深めることは、子どもたちの生きる力になる。本を心の架け橋にと「母と子の20分間読書」運動を鹿児島から全国に広めた。「親子読書」の言葉を日本で初めて使ったのもこの運動だ。亡くなる直前まで、日本全国、読書の大切さの講演を行っていた。

「声には心がある。こんなおじいさんになった今も、幼い頃に毎日、囲炉裏端で昔話を語ってくれたばばさまの声は心の中で生き続けているよ」。

ばばさまの語りと温かな時間が自分の心の核となっている。物語を通じた温かな時間を親子で持つことは、将来の子どもたちの生きる力になると信じた。お母さんの声は「金の鈴」、いつまでも心の中で鳴り続けるといって。

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「人間でも、自然でも、最後のお別れの言葉がいちばん美しい」...
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おとなの週末Web編集部
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