晩年は「三中老」に就任
晩年、吉晴は政権内で重きをなし、五大老、五奉行の調整役ともいえる三中老に就任しましたが、慶長3(1598)年、秀吉が亡くなると、豊臣政権内は家康派と反家康派で二分されました。
吉晴は両派の調整をしながらも、世の趨勢をしっかりと見ていたようです。慶長4(1599)年、老齢を理由に家督を次男の忠氏に譲り、家康から越前府中に隠居料5万石を与えられて一線から引いたのです。秀吉亡きあとの政争に巻き込まれたくなかったのでしょう。
「吉晴公」と松江の人々から尊敬を集める
慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いでは、堀尾氏は東軍につきました。本人は合戦に参加しなかったものの、息子の忠氏が戦功を挙げ、名門尼子氏の本拠地であった出雲富田24万石が与えられることとなりました。
が、吉晴と忠氏は、宍道湖のほとりにある松江の立地に着目し、松江城を築城してここに移りました。吉晴は完成直前に亡くなり、孫の忠晴にも世継ぎがなかったため、堀尾氏はわずか3代で改易となってしまいますが、夕日の美しい松江の町はしっかりと残りました。そのため、松江の人々からは今でも吉晴公と呼ばれ、尊敬を集めています。400年以上たっても愛されているということは、善政を敷いたからに違いありません。