ラリー王国日産の復権と欧州での販売増強
70年代に海外ラリーを席巻した日産はその後ラリーからサーキットに軸足を変更。その日産がなぜWRC参戦を目論んでいたのか? それは欧州での販売増強のためだ。グループB時代を席巻したプジョー205T16は、WRCで優勝した翌日にはディーラーに市販の205を買いに来る客でごった返した、という逸話もあるくらい、欧州ではWRCの結果が販売に大きく影響する。最近ではWRCでのGRヤリスの活躍により、ヤリス、GRヤリスとも販売絶好調という。それほど欧州ではWRCの影響は絶大なのだ。
1991年のサファリでデビュー
当時のWRCは、市販車をベースとして改造範囲の狭いグループA規定で開催されていて、『王者ランチアにトヨタが挑む』という図式だった。ランチアインテグラーレ対トヨタセリカGT-FOURがラリーファンを熱くしたものだが、日本メーカーではマツダファミリア(323:欧州名)4WD、三菱ギャランVR-4、スバルレガシィなども台頭している状況のなかパルサーGTI-Rは1991年のサファリラリーでWRCデビュー飾った。
参戦初期につきもののマイナートラブルなどに悩まされながら、5台が参戦し最上位は総合5位に入るなど、結果としては上々のスタートを切った。このまま順調に進化していくかと思われたが、その後は苦戦の連続。当然トラブルも頻発したが、数多くの欠点を抱えていたのだ。
数々の弱点が発覚
コンパクトなボディに大パワーエンジン+4WDという組み合わせはラリーフィールドで最適と思われていたが、ショートホイールベースによるピーキーな挙動、さらにフロント70:リア30という極端にフロント寄りの重量配分により、非常に曲がりにくい。ホイールアーチが小さいためタイヤの大径化も難しいうえに、サスペンションストロークも不足してトラクション性能にも問題があった。
そして最大の弱点はエンジンの冷却性能。大容量のインタークーラーを装着しても充分な冷却性能を発揮できずオーバーヒートに悩まされ続けた。
WRCでのパルサーGTI-Rは1992年のスウェディッシュラリーでの3位表彰台が最高成績だ。スウェーデンの英雄スティッグ・ブロンクビストによってもたらされた。しかし、それ以外は思うような結果が残せず、日産は1992年をもってWRCからワークス撤退してしまった。わずか2年、14戦に参戦したのみでプロジェクトは終了。
GTI-Rの欠点を克服できなかったのは痛かったが、成功を焦るあまり日産が参戦2年目の1992年にタイヤを変え、いろいろなパーツを変えて、前年に取得したデータを活かせず何がよくて何が悪いのかというのがチームとして判断できず、それがGTI-Rの欠点克服において後手後手に回ってしまったのは無視できない点だ。