過酷な労働条件だったSL機関士
1952(昭和27)年のサンフランシスコ平和条約が発効すると、日本の主権は回復し、GHQの占領政策から解放された。これまで側線として貨物輸送を行っていたこの路線も、晴れて「専用鉄道」へと転身させるための準備(認可申請)が開始された。その後、2年の歳月をかけた手続きは完了し、1954(昭和29)年12月7日、独立路線としての「東京都専用線小河内線」が誕生した。
ダム建設は順調に進み、1957(昭和32)年5月10日、5年5か月にもおよんだ鉄道による貨物輸送は終わりを遂げた。延べの輸送量は約96万5000トン、貨物列車の運行本数は1万1620回も氷川駅と水根積卸場駅間を往復した。貨車に積んで運ばれたセメントや川砂は、ダムコンクリートの打設工事に合わせて適量を運ぶ必要があり、貨物列車は日夜、ダム工事の進捗に合わせて臨機応変なダイヤによって運行された。勾配のきついトンネル区間では、蒸気機関車から吐き出される煤煙(ばいえん)により、”機関士の窒息”が懸念されるなど、過酷な労働条件だったという。その労苦は、計り知れないものだった。

小河内線の獲得と“西武鉄道の野望”
1957(昭和32)年11月26日、小河内ダムが完成すると、「東京都専用線小河内線」もお役御免となり、東京都の所管のまま「休止線(運休中)」となった。奥多摩湖の観光地化を狙っていた複数のデベロッパーからは、小河内線を売却してほしいといった要望が東京都に寄せられていた。西武鉄道も、奥多摩湖を取り込んだ一大レジャー施設の建設計画を打ち立て、小河内線の観光鉄道化をめざした。
この当時の西武鉄道は、まだ国鉄青梅線と接続する拝島駅まで開通していなかった(西武線の開業は1968/昭和43年5月15日)。しかしすでに、西武上水線(じょうすいせん/現在の西武拝島線)を延伸して、国鉄青梅線へ乗り入れる構想を抱いていた。そして、最終的には奥多摩湖まで電車を走らせることも視野に入れていた。
ところが、1961(昭和36)年10月に国鉄は、「将来にわたっても西武鉄道と国鉄青梅線の相互乗り入れ(直通運転)は実施しない」ことを決定する。これにより、西武新宿駅発→奥多摩湖行きの「観光列車構想」という夢は、打ち砕かれてしまった。1963(昭和38)年に東京都は、入札により小河内線の売却を実施した。夢破れたはずの西武鉄道だったが、1億3050万円で落札し、同年9月21日、正式に東京都から西武鉄道への譲渡が運輸省(現・国土交通省)から認可された。東京都専用線小河内線は、「西武鉄道小河内線」となった。
小河内線を手中に収めた西武鉄道は、沿線の石灰山開発に伴う鉱石輸送と起点から4km付近に中間駅(積卸場)を設置すること、奥多摩湖畔の倉戸山(くらとやま)一帯の自社所有地を中軸とした「秩父多摩国立公園の造成」に必要な諸資材輸送を行うことを計画する。この「造成」とはまさに、奥多摩湖を「第二の箱根」として開発したい、“西武鉄道の野望”であった。
「第二の箱根」をめざした壮大な開発計画
西武鉄道は、小河内線を落札した同時期の1963(昭和38)年2月2日に、東京都に対して奥多摩湖を観光地化するための「一大レジャー施設計画図」を提出した。この計画は、既に西武鉄道が手掛けていた豊島園や西武園、箱根園といった施設を手本とした壮大なスケールのものだった。
当時、西武鉄道のほかにも、大多摩観光(奥多摩振興)や小河内観光開発といった企業も、奥多摩の観光開発に名乗りを上げていた。また、奥多摩町や地元住民も「観光施設の実現」を強く望んでいたという。そうした中での西武鉄道の開発計画は、”豊富な経験と実績”、そして”潤沢な財力”を強みにした、圧倒的なスケールを誇るプランだった。
小河内線の終点駅には、拠点となるバスターミナルを備えた「ステーションビル」を建設し、そこからロープウェイやリフトで奥多摩湖を一望できる倉戸山(くらとやま)を結び、さらにケーブルカーで湖畔と倉戸山の頂上を行き来できるようにするなど、西武鉄道らしい利便性を重視した計画であった。さらには、レジャー施設として、ヘリポート、ホテル、ユースホステル、展望台、大食堂、野外劇場・音楽場、屋内競技場・卓球場、運動場2か所、高級キャンプ場、一般キャンプ場、キャンプファイヤー場、遊園地2か所、広大なゴーカートコース、おとぎ電車に加え、湖上にはモーターボート遊園地や大噴水を設けるなど、聞いただけでも”わくわく”するような施設が、盛りだくさんに計画されていた。