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“ピストル堤”も音を上げた!? 未成に終わった開発計画

西武鉄道が奥多摩開発に意欲を示したのは、1958(昭和33)年7月のことで、陳情書には、「社会の要望に添う開発を計画することが、経験と実績を有する当社の使命であると確信し・・・」と“実行を決意した理由”を述べていた。

しかし、奥多摩湖周辺はすでに「秩父多摩国立公園(当時)」として1950(昭和25)年7月に指定を受けており、肝心の奥多摩湖も「水道専用貯水池」として東京都水道局の水質管理下におかれていた。こうした事実から、国と東京都としては到底「観光地化」を受け入れるわけにはいかない状況にあった。奥多摩湖周辺に移住していた旧小河内村の元村民からは、快く思われていなかった節もあったという。

それでもあきらめきれなかった西武鉄道は、「せっかく親しまれ始めたものの、開発が進まず忘れ去られようとしている奥多摩湖の現況を見ます時、その実態は期待を持った地元民はもとより、単に東京都民のためならず、国土の狭隘(きょうあい)と資源の貧困をかこつ日本のため放置できない重大事と存ずるものであります」と、さらなる陳情を行った。剛腕を振るった様子などから“ピストル堤”の異名を持つ西武グループのトップで、衆議院議長も務めた堤康次郎(つつみ・やすじろう)氏(1889~1964年)率いる西武鉄道らしい、粘り強い手法だった。

計画から6年が経過した1964(昭和39)年10月になると、既に敷設免許を取得していた奥多摩湖鋼索鉄道(ケーブルカー)を、突如「起業廃止(免許返納)」した。その理由は、「奥多摩湖開発構想を練り直す必要に迫られ、目下鋭意検討中であり、ケーブルカーは普通索道(ロープウェイ)に代替するので廃止する。」というものだった。“弱音”を見せた記録文書は、この一文だけで、これ以外に“計画を廃止する”、“取り下げる”、といった文言が記された文書の発見には至っていない。

おそらく、国立公園内ということ、奥多摩湖が東京都水道局の水質管理下にあること、用地買収が困難を極めたこと、西武新宿駅から直通する観光電車を運行することができなかったこと、などが足かせとなり、「第二の箱根」計画をあきらめざるを得なかったのではないか、と推察する。さすがの“ピストル堤”でも撃ち崩せない“大きな壁”が立ちはだかっていたのだろう。

奥多摩周遊道路「月夜見(つきよみ)第1駐車場」から見た奥多摩湖。写真の中央奥に見えるコンクリート構造物が小河内ダム=2000(平成12)年1月1日、東京都奥多摩町、写真提供/奥多摩観光協会

実現しなかった観光鉄道のゆくえ

西武鉄道は、壮大なプロジェクトをあきらめたものの、「西武小河内線」だけは現役の鉄道路線(休止・運休路線)として所有し続けた。1971(昭和46)年2月に、国鉄青梅線の氷川駅が「奥多摩駅」へと改称された後も、西武小河内線は「氷川駅」のままとされた。 

所有から15年が経過した1978(昭和53)年3月31日、西武鉄道は、奥多摩地域で石灰石の採掘や販売を手掛ける奥多摩工業株式会社へ、“小河内線のすべて”を譲渡した。これにより、西武鉄道の奥多摩観光開発計画は、完全に消滅した。譲渡した理由の一つには、奥多摩工業が奥多摩駅からJR線へ発送していた貨物列車があり、その入換え作業などで小河内線の一部(氷川駅構内)を使用していたためだと言われる。

小河内線は、同社所有となった後も「休止・運休路線」として、現役の鉄道のままとなっていた。その後、1998(平成10)年8月に同社がJRへ発送する貨物を廃止したことで、翌1999(平成11)年3月には、JRも青梅線での貨物営業を廃止した。小河内線もこのタイミングで、「本来の貨物輸送という使命を終えた」と考えるのが自然であろう。

奥多摩工業は、実のところ“青梅線”と非常に関係が深く、御嶽駅から氷川(現JR奥多摩)駅間に鉄道を開通させようとしていた「奥多摩電気鉄道」を前身とする会社なのだ。この鉄道は、完成間近だった線路や鉄橋などを、国策によって「買収(国有化)」され、開通を待たずして消えた「幻の鉄道会社」でもあった。そうした企業が、今も旧小河内線の線路を保有し続けていることは、なんとも感慨深いものがある。

※小河内線に関して奥多摩工業株式会社へ問い合わせすることは、ご遠慮ください。

建設中の氷川駅(現JR奥多摩駅)=1943(昭和18)年頃、東京都奥多摩町、写真提供/奥多摩工業

小河内線の線路を辿る

1979(昭和54)年、小学4年生の時の社会科見学で小河内ダム(奥多摩湖)を訪れたことがあった。この当時は、小河内線の存在すら知る由もなかった。貸切バスに揺られて国道411号線を走っていると、鉄道橋らしきものをバスの車内から発見し、ひとり興奮したことを今でも覚えている。

 その後、1985(昭和60)年に「小河内線」を再訪した。奥多摩駅に近い線路上には、なぜか石灰石を運ぶ貨車が数両、留め置かれていた。それは、まさに国鉄青梅線の線路とつながっている証だった。小河内線は、当時すでに奥多摩工業が所有する”休止線もしくは運休中”といわれる「廃止になっていない鉄道路線」となっていた。これは、いつでも現役の鉄道として復活できることを意味した。その後、1994(平成6)年になると鉄道事業法が改正され、専用鉄道に関する届出等の義務がなくなり、自社による管理に改められた。つまり、廃線という概念がなくなったのである。現状、小河内線が「廃線跡」に属するかどうかは微妙なところだが、あくまで奥多摩工業の“私有地”であることには変わりがないので、無用な立ち入りは避けたいところだ。

10年ほど前に「奥多摩むかし道」というハイキングコースがあることを知り、訪れてみた。JR奥多摩駅から奥多摩湖(小河内ダム)へと至る「旧青梅街道」を歩く、約10km、4時間のコースである。奥多摩駅を出発して7分ほどでハイキングコースの入口に辿り着く。コースを歩きはじめ7~8分すると、小河内線の線路を横断するのだが、踏切というかレールが土で埋もれているためか気づきにくい。左側を注視してレールが見えたら、すぐに後ろを振り向けば「第3氷川トンネル」が確認できる。そこからハイキングコースは、線路を左手に見ながら登り坂となる。さらに7~8分歩くと左手眼下に「第3氷川橋梁」が見えてくる。路盤、レール、トンネル、橋梁などのすべてが、当時のままに残されており、ここに鉄道が走っていたことを実感できる瞬間であった。

ハイキングコース「奥多摩むかし道」マップより、小河内線に遭遇するあたりを部分拡大したもの=資料提供/奥多摩観光協会
マップ上の「丸数字1と2」の間にある「廃線跡」と書かれた位置で、ハイキングコースは旧小河内線の線路(踏切)を横断する。トンネルは「第3氷川トンネル」=2014(平成26)年10月20日、東京都奥多摩町、写真提供/奥多摩観光協会
マップ上の「丸数字2」の辺りで、眼下に旧小河内線の「第3氷川橋梁」が見られる=2014(平成26)年10月20日、東京都奥多摩町、写真提供/奥多摩観光協会
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途中下車して食べた「奥多摩やまめの塩焼き」...
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