ガソリンカーの思い出
1970年代、祖父母はガソリンカーの沿線に済み、祖父は住友セメントで働いていた。春夏冬になれば、祖父母の家へ遊びに行くのが恒例行事となっていた。幼少期にガソリンカーを見て育ったこともあり、いつの日か“鉄道大好き少年”になっていた。
全長3.3kmの路線は単線で、途中の2か所で列車の交換(行き違い)が行われていた。列車の運転は約7分間隔で、1日50往復、朝7時から夜7時までひっきりなしに走っていた。運転しない日は、お正月とお盆休みくらいだった。最終列車は、機関車だけが山から工場へと戻り、その車体には日中では見られない青色のテールランプが灯される。これを見ると、やっと静かにテレビが見られると子どもながらに思ったものだ。
気が向けば祖母の手を引き、列車の交換所や唐沢鉱山での鉱車(貨車)の入換えを数えきれないほど見に行った。ときには、買い物ついでに列車交換所へ立ち寄り、鉱石列車が通過するポイントの動きを夢中で見るあまり、買い物袋の上に腰かけたことも忘れて生卵を割ってしまったことがあった。その晩のおかずが玉子焼きだったことも、今となっては懐かしい思い出だ。
当時は道路事情が悪く、ガソリンカーと並行する国道293号線は、周辺の鉱山などへ出入りする大型ダンプの往来が激しく、道を歩くのが怖かったことを思いだす。安全という選択肢の一つに、ガソリンカーの線路を歩くという荒業があった。そのタイミングはというと、ガソリンカーが工場へ向かって走り去ると、その反対方向に向かって線路上を歩き出す。それから5分くらいすると、工場側の交換所ですれ違ったガソリンカーが走ってくる。この合間を利用して歩いたのである。地元の人の知恵というか、何とも大らかな時代の出来事であった。
そういえば、後日談として祖母から家のすぐ脇でガソリンカーが脱線する事故が起きたことがあったと聞かされたことがあった。なんでも、「置き石」による悪戯ではないかと、住友セメントの社員が近隣の家を一軒ずつ周り、目撃者探しをしていたそうだ。現場付近にある踏切は、警報機も遮断器もない「四種踏切」であり、道路は砂利道だった。結果、原因はわからにままだったそうだ。脱線の古傷は、後年ずっと枕木に刻まれていたことを思い出す。
