三重県を五つの地域に区分したひとつ、令制国「伊勢国〔いせのくに〕」の北部に位置する「北勢」を走るローカル私鉄、三岐鉄道。この鉄道には2つの路線があり、ナローゲージで有名な北勢線と、国内最後のセメント輸送列車を担う三岐線がある。四日市市の富田〔とみだ〕駅と、いなべ市の西藤原駅とを結ぶ三岐線は、セメント会社による鉄道建設計画に端を発する。社名も、“三”重県四日市と“岐”阜県大垣市上石津町町を経て、同県関ケ原町とを結ぶ計画だったことに由来する。創業期から戦後の10年間におよぶ三岐線の歴史を、公文書と古写真で振り返ることにしたい。
※トップ画像は、国内で唯一となる「セメント輸送列車」を運行する三岐〔さんぎ〕鉄道三岐線。丹生川〔にゅうがわ〕駅~三里〔みさと〕駅間で=2026年9月7日、三重県いなべ市
セメント会社が起業した鉄道
日本にはじめて鉄道がお目見えしたのは、1872(明治5)年のことであるが、それから20年が経った1892(明治25)年になると、国が建設すべき全国の鉄道計画路線を定めた「鉄道敷設法」が公布された。そのなかに記載されていた鉄道路線の一つが、のちの三岐鉄道の礎ともなる「三重県四日市より岐阜県関ケ原を経て滋賀県木ノ本に至る鉄道」だった。
ところが、これよりも早い1883(明治16)年には、四日市と関ケ原を結ぶ鉄道「勢江鉄道」の建設を申請した者がいた。四日市港の築港の功労者であり、廻船問屋などを経営していた稲葉三右衛門〔いなば・さんえもん〕が、その人であった。しかし、この申請はあえなく却下されてしまう。
1927(昭和2)年になると、浅野セメント(官営深川セメント工場→日本セメント→現・太平洋セメント)が「藤原鉄道」を、小野田セメント(→秩父小野田セメント→日本セメント)が「員弁〔いなべ〕鉄道」の鉄道敷設免許をそれぞれに申請したが、両社の計画は似て非なるものゆえに統合することで決着し、「藤原鉄道」として改めて鉄道敷設免許の申請が行われた。この申請に対して、競合路線となる北勢鉄道(→のちの三岐鉄道北勢線※軽便鉄道ナローゲージ路線)は、「反対陳情」を行ったが、その話は聞き届けられなかった。
翌年(1928/昭和3年)6月9日には、申請していた四日市線(国有線四日市駅~大長村)、富田線(富田駅~大長村)、藤原線(大長村~国有線関ケ原駅)、旭浜線(四日市市~鹽濱村)、川島線(三重村~川島村)間の計46哩28鎖29節の鉄道免許状が下付され、正式に会社設立と同時に社名も「三岐鉄道株式会社」へと商号変更した。
1929(昭和4年)になると、富田線と川島線の計画を取りやめ、保々〔ほぼ〕村~富田町間と常盤村~川島村間へと改め、四日市線と藤原線を統合したうえで本線(四日市駅~関ケ原駅)と称し、その他の計画路線も富田支線(富田駅~保々村)、川島支線(川島村~常盤村)、旭浜支線(四日市駅~鹽濱村)と路線名を変更した。

















