♪汽笛一斉新橋を、の歌詞ではじまる「鉄道唱歌」にうたわれる新橋駅(のちの汐留駅→廃止)は、わが国最初の鉄道創始駅として横浜駅(→現・桜木町駅)とともに誰もが知るところだ。その開業は、1872(明治5)年10月14日〔旧暦9月12日〕にまでさかのぼるが、実のところ、それ以前となる6月12日〔旧暦5月7日〕から、“品川駅”~横浜駅間で営業運転を開始していたことを知る人は少ない。なぜ、品川駅の開業は表舞台に出てこなかったのか。鉄道史の裏に秘められた「我が国初の鉄道開業」に至るまでの“内情”について、当時の「鉄道錦絵」を見ながら読み解くことにしたい。
※トップ画像は、鉄道錦絵より「東京新橋鉄道繁栄并高輪遠景」〔部分拡大〕。三枚続き画で描かれた新橋駅(当時)と高輪(品川)の遠景をゆく蒸気車=絵師/梅堂国政(のちの四代・歌川国政)〔伊勢兼吉:板〕、所蔵個人蔵
陸がダメなら海上に線路を
いまから154年前の1872(明治5)年6月12日午前8時、横浜駅(現・桜木町駅)から品川駅に向けて一番列車が走りはじめた。ニッポン初の鉄道開業である。しかし、教科書などで教わる我が国初の鉄道開業は、同年10月14日の新橋駅~横浜駅間(約29km)というのが、一般的な認識であろう。
そもそも、日本と鉄道の関わりは、1853(寛延6)年にロシア帝国(ロマノフ朝)の海軍軍人プチャーチン氏が来日の際に、幕府への手土産として持参した“蒸気機関車”の模型を手にしたことにはじまる。その後、1860(安政7/万延元〔第14代将軍:徳川家茂の時代〕)年に「日米修好通商条約(=別名ハリス条約)」を結んだ際の”批准書交換”のため、福沢諭吉氏ら日本の使節団がアメリカを訪問し、その時にはじめて”鉄道に乗車”したとされる。
時代は明治へと遷り変わり、時の政府は経済の発展と軍事力の強化を目指し、「富国強兵」を推し進めた。その政策のひとつに殖産興業をかかげ、「交通・通信の整備」として1869(明治2)年に、東京~京都間の幹線整備を軸とした”鉄道建設”が決定した。工事は、1870(明治3)年からはじまり、2年後の完成を目指した。しかし、当時は徳川幕府の解体により外国からの「武力侵略」の脅威が高まるなど、鉄道よりも軍艦、大砲などの”軍備増強”が叫ばれ、鉄道建設推進に反対する声は多かったという。
こうした背景のなか、政府軍部は現在の品川駅と田町駅間の海沿いに点在していた「軍用地」を、鉄道用地に転換することを拒否し、沿岸にあった砲台などの軍施設周囲での測量を一切禁じた。そこで、陸上がダメなら海上に全長2.7kmの築堤(埋立地)をつくって、線路を通そうと提案した人物がいた。その人とは、“鉄道推進派”のひとりで、当時の大蔵官僚だった「大隈重信」氏だと伝えられる。
建設工事に従事した日本人は、御雇外国人技師らに「“ちょんまげ”を引っ張られながら仕事をさせられた」という。これは、言葉も通じぬまま、作業に従事した日本人が当時の回顧録のなかで語った「愚痴」の一節である。













