工事の遅れは国家の恥
鉄道工事は、1870(明治3)年の用地測量にはじまり、次いで線路敷の造成といった土木工事を東京側と横浜側のそれぞれから開始した。当時、東京港は開港していなかったため、イギリス国から輸入したレール(線路)や機関車などは、すべて横浜港に陸揚げされた。このため、線路の敷設工事は横浜側から進められ、東京側の工事は用地買収などが思うように進まず、遅れをとっていた。
東京側となる品川海域での工事は、まず品川駅用地の海上埋め立てからはじまった。その後順次、新橋駅側に向けて築堤の造成工事を進めた。海上での工事は、浅瀬だったとはいえ難航を極めたといい、干潮時をねらって泥まみれになりながら工事を行ったと記録には残される。1871(明治4)年11月になると、工事の遅れを取り戻すため、新橋駅側からも品川に向かって築堤工事は同時進行で進められた。海上に積み上げられた築堤の礎となる土砂や小石は、無情にも高波に襲われると一夜にして崩壊したという。こうして工事用の土砂は不足し、その埋め立てには川砂や粗大ごみ・家庭ごみを用いるなどしたため、品川駅側の築堤に比べると粗末な造りだったことが、近年の発掘調査でも立証されている。
1872(明治5)年になると、開国ニッポンの外交政策も推し進められ、外国要人の来日が計画された。当時は、横浜港の反対もあって東京は開港することができなかった。このため、外国船はすべて横浜港へ着岸するほかなく、上陸した外国賓客らの東京への“重要な足”として、”鉄道の開通”は急務となった。このころは、すでに墨田川に架かる永代橋と横浜港とを結ぶ民間の蒸気船が就航していたが、片道1時間半もかかったという。文明開化によって西洋文化を取り入れた「新生ニッポン」をアピールするうえでは、横浜駅~新橋駅間を片道45分で結ぶ鉄道計画の存在は、“国家の威信”にかかわる重要な一大プロジェクトだったのだ。



