サンタナの名盤『ロータスの伝説』のジャケットデザイン
ひとりの名も無いフリーライターが、ペンだけを頼りに生計を立ててゆくには、師が必要だと思う。ぼくの場合はフランス文学者にして詩人、その一方でお化け関連の著書も多い平野威馬雄先生が20代初期の導師だった。料理愛好家の平野レミの父上だ。1970年代初期、平野先生は、”お化けを守る会”を立ち上げた。ぼくは幹事に任命されて、会に参加する方々との連絡係を命ぜられた。
定期的に千葉・松戸の平野邸に集い、平野先生や偉いお坊さんの講和を聴いた。会員には、美輪明宏、渥美清、永六輔、横尾忠則、土屋嘉男などといった凄い顔ぶれがいた。この会をきっかけに横尾忠則の東京・成城のアトリエを何度か訪問した。
1978年、はっぴいえんど、高田渡などが在籍したベルウッド・レコードの創立者・三浦光紀(こうき)が、フォノグラム・レコード(当時)に移って新たにスタートさせたプロジェクトから、ぼくが発掘した天才ギタリスト、新津章夫(1952~2002年)をデビューさせることになった。彼の要望はデビュー・アルバムのジャケットを横尾忠則にお願いしたいという。横尾忠則は1974年のサンタナの名盤『ロータスの伝説』などのジャケットを手掛けていた。
『ロータスの伝説』のディレクターに訊ねたら、ギャラは800万円(1974年の800万円!)だったという。無名のギタリストのジャケット・デザインにそんな大金はかけられない。しかし、ぼくは当時の横尾忠則のピュアなアーティスト・マインドを知っていたので、成城のアトリエに、完成した作品『I・O(イオ)』のカセットテープを持ってお邪魔した。