「近親憎悪について」
何から何まで好対照の兄と弟
私には3つ年上の兄がいる。
東京の旧家の風習に従い、兄と私とは幼いころたいへん差別的に育てられたと記憶する。一家の総領として生れた兄はほとんど祖父母の手で養育され、母は乳を与える時間の他には抱くことすら許されなかったそうである。
「ソウリョウ」という言葉を、幼い私は畏敬すべき兄の別名だと思っていた。
それにひきかえ次男坊の私は、母の愛情を一身に享けることができた。わかりやすく言えば、家は父と祖父母と兄とで構成される支配者階級と、母を頂点として私と使用人たちで構成される無産階級とででき上がっていた。
ひとつ屋根の下で、この2つのカーストは明らかに別々の生活をしていたのであった。
古写真などを見ると、幼い日の兄はポマードべっとりの七三に分け、ブレザーとネクタイでおすまししているのであるが、私はなぜか林家三平ふうのパーマをかけており、ルパシカなんぞを着せられている。
ほどなく朝鮮動乱の特需景気が終わると同時にわが家は没落し、使用人たちは去り、家屋敷は人手に渡って私たち兄弟はタダの少年になってしまうのであるが、私と兄との間には幼時に培(つちか)われた関係がその後も長く残った。
私は43歳となった今も、兄の前ではひどく緊張してしまい、常に敬語を用い、外でメシを食うにしても兄が先に箸をつけなければ物を口に入れられない。
もっとも、成長の過程においても、私はずっと兄にコンプレックスを抱き続けてきた。家は没落したのだけれど、兄は総領の矜(ほこ)りを決して捨てることなく、謹厳実直、品行方正、あたかもストイックな儒者のごとき人生を送ってきた。
ゆえにその間、放蕩の限りを尽くしてきた私は、なおさら頭が上がらんのである。
たとえて言うなら、旗本の跡とりに生れた兄が昌平黌(しょうへいこう)に通って学問を修め、お玉ヶ池の千葉道場で撃剣の稽古に励んでいたころ、部屋住みの弟は派手な身なりで吉原に通ったり、大川端で辻斬りを働いたりしていたのであった。
で、ともに明治の御一新を体験したのち、兄はみごとお家を再興し、弟は紆余曲折を経てなんとか市井の物書きになった、というわけである。
こうした経緯もあって、兄と私とはもともと兄弟でこうもちがうかというぐらい異質であった。顔形、体型、趣味、性格、どれをとっても相似点など何ひとつとしてなかった。
要するに幼いころのポマード・ネクタイの兄と、パーマ・ルパシカの弟は、ほとんどそのままパラレルに成長して行ったのである。
たとえば同じ20歳の肖像を見ると、早稲田の勤労学生であった兄は牛乳ビンの底のようなメガネをかけて小むずかしい顔をしており、自衛隊員であった私の顔はひたすら暴力的でインテリジェンスのかけらすらない。
なぜハゲた、と兄は私を責めた
さらに数年後、兄は大学を出て税務事務所に勤め、私は度胸千両の業界人になってしまったので、このへだたりはいっそう顕著になった。
私がたまに兄の事務所に遊びに行くと、兄の同僚たちはみな殴りこみかと思って怖れおののき、弟だと名乗っても誰も信じてはくれないのであった。
同様の理由から、兄が私の事務所に遊びにくると、私の同僚たちはみな家宅捜索かと思って怖れおののき、兄だと名乗っても誰も信じようとはしないのであった。
ために当時、私たち兄弟はたがいの事務所を訪れるときは必ず事前に連絡をしようと誓い合ったほどであった。
さて、そうこうするうちにも兄は勤勉である分だけ暮らし向きも豊かになり、それに応じて肥満し、頭もハゲた。私は放蕩の分だけ苦労をし、人相も悪くなったので、兄弟の相似点はいよいよなくなってしまった。同じ腹を痛めた子供であるのに、何でこうも違うのかと、母は会うたびに嘆いた。
しかし、血というものは怖ろしい。30の声を聞いたころから突然と私の頭髪が薄くなり始め、それに連動して肥り始め、あまつさえナゼか近眼になり、ある日フト気が付くと、私と兄はウリふたつの容貌になってしまっていたのである。
お互いに多忙で疎遠になっており、久しぶりに親類の祝儀の席で顔を合わせたとたん、私たちはギョッと立ちすくんだものであった。
おまえ、なぜハゲた、と兄は私を責めた。にいさん、せめてヒゲを剃って下さいと私は懇願した。親類の年寄りたちは何が何だかわからなくなってパニクッた。おまけに私たちは太郎と次郎というまことにぞんざいな名前を持っていたので、何となくファンタジックな印象をもって周囲を沸かせたのであった。
後日、兄は執拗に電話をよこして、迷惑だからカツラをかぶれと私に迫った。当然、私は私自身のアイデンティティーを賭けて、それを言うならにいさん、あなたが先にかぶりなさいと要求をした。
そうこうするうちに兄弟は40の峠を越え、年齢に応じてその相似たるや、ほとんど見分けがつかないほどになってしまった。しかし、住いも遠く離れ、稼業も全く無縁であるからことほどさように支障はなく、たまにメシを食いながらイヤな思いをする程度であった。