文学賞授賞式の夜に起こった悲劇
悲劇は今年の春に起こった。
初めて文学賞をいただいた私は、当然畏敬する兄を授賞式に招待した。嬉しくって、あとさきのことを考える余裕はなかった。
帝国ホテルの孔雀の間というたいそうな式場で受賞の言葉を述べているときに、ふと悪い予感がしたのである。満場の招待客の中に同一人物がいるではないか。
しかもあろうことか近ごろでは趣味嗜好までそっくりになってしまった兄は、私と同じような背広を着、同じ色のネクタイをしめ、違うところといえば胸に菊の花をつけていないことだけなのであった。
授賞式はやがて壮大なパーティとなる。そのさなかにも私は、兄の所在が気になってしかたがなかった。
ふと見ると、広い会場の一角に人だかりがある。案の定、大勢の人々が、私と兄とをまちがえている様子なのである。
まずい。これはまずい。なぜまずいかというと、兄弟の唯一共通の性格といえば、極めて如才なく、来る者こばまず、調子をくれるのである。周囲の人だかりを見れば、兄がうりふたつの兄弟であると言う機会を失ってしまい、出版関係者や作家の方々と如才ない会話をしちまっているのは遠目にも明らかであった。
会場はただでさえ誰が誰だかわからんような混雑ぶりなのである。しかも時とともに人々は酩酊して行く。
この際、私が兄のところへ行って一緒にいれば問題はないのだが、そんなツーショットをまちがってグラビアにでも載せられたらたまったものではない。で、大混雑の中、家人を伝令にとばし、「おにいさん、いちいち言いわけも面倒でしょうから、ともかく仕事の返事だけはしないように」と、伝言させた。
余談ではあるが、後日別のパーティで出会った神田駿河台S社の編集者に、「お約束の十月号の原稿、よろしく」といきなり言われ、狼狽した。どう考えても、私には約束をした覚えがないのである。
さて、受賞パーティが終わって、お定まりの二次会となった。この際、悲惨な現実をせめて身近な編集者にだけは知っておいてもらおうと考え、兄も誘った。
かくて人々は、パーティ会場に2人の私が存在していたことを初めて知り、みな等しく驚愕したのであった。
実は、私たち兄弟には複雑な事情があって、私が15の時から一緒に暮らしてはいない。そして兄は、実朝を愛し、太宰を愛する文学青年であった。大学は文学部であり、同人誌も主宰していた。
私は兄を畏敬し、兄に反撥し、誰よりもまず兄に影響を受けて成長してきたのだと思う。
二次会がはねた後、人々は相変わらず兄弟の相似にあきれ返りながら、どやどやと銀座の路上に出た。
私が出がけにトイレに寄ったのはうかつであった。兄は言いわけをする間もなく、講談社のハイヤーに乗って帰ってしまったのであった。
(初出/週刊現代1995年10月28日号)
担当編集者による吉川英治文学新人賞授賞パーティ二次会事件の補足
私は、この二次会を仕切った担当者の一人であった。
会場は、銀座の路地の地下にある大箱の店である。そろそろお開きの時間となり、私は待機していたハイヤーを店の前まで呼び寄せた。そして、浅田さんに声をかけて車までエスコートする。初の文学賞受賞が余程嬉しかったのだろう。満面の笑みでハイヤーに乗り込んだ浅田さんを最敬礼で見送った。
そして、店に戻り、帰り支度をしようとした瞬間、トイレから出てきた人物を見て、愕然とする。
なぜ、浅田次郎がもう1人いるんだ……?
頭の中は真っ白になり、しばし呆然と、もう1人の、いや本物の浅田さんを見つめる。
不思議そうにこちらを見返す浅田さんの「どうした?」の声に、やっと気づく。先ほど見送ったのが、浅田さんの兄上だったということに……。
今さら、兄上が乗ったハイヤーを呼び戻すわけにもいかず、あわてて、もう1台ハイヤーを手配する。
痛恨のミスだった……。だが、文芸局の浅田担当である先輩も、えらい文芸局長も、こわもての週刊現代編集長も、そして、浅田さん本人も、誰も私を責めなかった。ただただ大笑いしていた。
それほど、このご兄弟はそっくりだったのである。
浅田次郎
1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。