国内外のアーティスト2000人以上にインタビューした音楽評論家の岩田由記夫さんが、とっておきの秘話を交えて、昭和・平成・令和の「音楽の達人たち」の実像に迫ります。フォークシンガー、西岡たかしの第2回では、“人生の師匠”と慕う筆者が、西岡たかしの曲作りへの姿勢についてつづります。印税よりも、自分らしい生き方を―――。今回も、“心に効く”エピソードです。
作品をいかにして多くの人に届けられるか…そんな発想はない
人生には師匠が必要だとぼくは思っている。メンターとか導師と言ってもいい。人生の師匠は別に現実で出逢った人でなくとも良い。その生きざまや言葉が、自分の人生を照らしてくれるのが師匠だ。別に相手の許可を得なくともいい。自分が勝手に師匠と決めてついて行けば良いのだ。
音楽シーンに於けるぼくの師匠は多い。外国ならジョン・レノン、ボブ・ディラン、ニール・ヤング、ブルース・スプリングスティーンだ。日本では大滝詠一と西岡たかしからぼくが学んだのは、人生と折り合いをつけながらも、いかに自分を曲げずに生きられるかだ。
例えば多くのミュージシャンは自分の作品を世に出したら、いかにして多くの人に届けるか考えるものだ。西岡たかしにはそういう発想がほとんど無い。
“自分はレコード会社なり、マネジメントなりに頼まれるから作品を作るんです。ただ、頼まれたからといって毎回、承諾して作るわけじゃない。頼まれた時に自分に作る気持ちがあった時だけ作ります。だから、頼まれて作った作品が売れようと売れまいと興味がない。売るのは頼んだレコード会社なり、マネジメントなりの責任であってぼくの責任でないのです”とある時、語っていた。
実際、作品が世に出ても、西岡たかしはレコード会社やマネジメントが苦労して用意したプロモーション活動に簡単には乗ってくれない。義理がある人や興味ある人間のインタビューは受けても、オファーのあった誰とでも仕事をすることはしない。
東京でのライヴが大成功
1969年、『高田渡/五つの赤い風船』というデビュー・アルバムが出たものの、ミュージシャンとして食べてゆくには充分なセールスとは言えなかった。そこへ東京でのライヴの誘いが舞い降りた。
“自分としては東京でのライヴが駄目だったら解散するかなと思っていたんです。そしたら、ライヴは満員で大成功だった。それでミュージシャンとして生活して行けるかなと少し思えた。東京でのライヴが失敗していたら、五つの赤い風船もソロ活動も無かったでしょうね”
東京で受け入れられたのは1968年5月8日にリリースされたシングル「恋は風に乗って」のB面「遠い世界に」(翌年、「遠い世界に」をA面として再リリースされている)が人気となったからだ。この曲のヒットによって五つの赤い風船音楽ファンに認知され、作詞/作曲を担当した西岡たかしには、他のミュージシャンへの楽曲提供の依頼が殺到した。
が、それらを悉く断ってしまう。“自分が作った歌を自分で演奏することにも自信が無かったり、これで良いのかと自問しているのに他のミュージシャンに提供なんて出来ないでしょう”と当時を思い出して語っていた。
それでもシモンズに提供した「恋人もいないのに」はヒットしている。ヒット曲が書けないのではなく、自分の楽曲に責任を負うのに手一杯だったというのが、何事にも誠実な西岡たかしらしい。彼にとっては楽曲提供によって派生する印税~お金~なんかより、自分らしい生き方を貫く方が常に重要なのだ。