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1990年代半ばは激動の時代だった。バブル経済が崩壊し、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件、自衛隊の海外派遣、Jリーグ開幕に、日本人大リーガーの誕生、そして、パソコンと携帯電話が普及し、OA化が一気に進んでいった。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルからの視点で切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」(週刊現代1994年9月24日号~1998年10月17日号掲載)は、28年の時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。 この平成の名エッセイの精髄を、ベストセレクションとしてお送りする連載の第45回。作家は、初の文学賞に輝いた授賞式の会場で一人の老医師と出会う。その老医師の過酷な半生を知り、彼とは対照的な医学会の泰斗と対比して、人間の価値というものを改めて考えた。

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「我儘について」

北の僻地からやってきた老医師との邂逅

華やかな授賞式の檀上で、その人は膝の上に置かれた賞牌と花束とを、じっと見つめていた。

私は隣席のその人の業績を知らず、お名前も存じ上げなかった。授賞式に続く盛大なパーティの席上で粗相があってはならない。そう考えて控室で配布された要項の小冊を、不躾(ぶしつけ)ながらその人には悟られぬように読んだ。

昨年の春のことである。

その人と私とは、奇しくも同時に吉川英治文化賞と同文学新人賞を受賞したのであった。

生年は大正15年、つまり私とはちょうど親子のちがいがある。住所は北海道厚岸(あっけし)郡大字──僻地であった。

略歴はこう記す。

昭和28年3月、当時北海道大学医学部内科医局に籍を置いていたその人は、前年の十勝沖地震の津波による大きな被害を受けた地域に、新妻を伴って赴任した。期間は1年間という約束であった。

しかし、荒廃した「釧路日赤病院分院」に到着したその人の見たものは、津波の惨状と夥(おびただ)しい結核患者と、救いがたい貧困であった。半分以上の住民が保険にすら加入しておらず、自由診療という僻地である。

昼も夜もなかった。その人は東西20キロ、南北52キロに点在する16集落の8000人の住民を、たった1人で守らねばならなかった。医師1人につき、診療人口は850人が平均といわれていた時代である。しかも設備はなく、衛生環境は劣悪であった。

その人は勇敢に戦った。1年の半ばを雪と氷にとざされる曠野(こうや)のただなかで、あらゆるものを相手に戦った。そして寸暇を惜しんで釧路の病院に通い、専門外の外科や産婦人科や眼科の医術を学んだ。

7年の歳月が過ぎた。昭和35年、2度目の大津波が村を襲った。多くの人命を奪ったチリ沖地震津波である。

壊滅的な被害であった。30代の半ばにさしかかっていたその人は、ひとりの医師の力ではどうすることもできない惨状の中で決意した。

もう札幌には帰らない、と。

そして、妻と子らに詫びた。

私のわがままを許してほしい、と。

それからその人は、さいはての大地に根を下ろした。着任からの42年を、8000人の命とともに生きた。

略歴に続く短文に、その人はこう書いていた。

「家内や子供達の夢をくだいて42年。札幌ははるか遠いところになってしまった。(中略)ただどんな小さな集落でも人が居れば医療があると考え生きて来た。今回の受賞は全く望外であり、私の我儘(わがまま)を許してくれた家内や子供達へすばらしい贈物を吉川英治先生がしてくれたのかも知れない。ありがとうございました──」

私は小冊を閉じた。分野こそことなれ、大変な賞をいただいてしまったと思った。

その人は私の隣で、相変わらず膝の上に置かれた賞牌と花束を、じっと見つめていた。その人にとっては本当に望外な受賞であったのかも知れない。

受賞の言葉を述べるために檀上に登った私は、すっかり上がってしまい、用意していた文句をすべて忘れてしまった。

多くの賓客やカメラの放列に臆したのではない。金屛風の前で俯きかげんに座っているその人の存在が、私の口からしゃれた挨拶の言葉を奪ってしまったのであった。シャンデリアに彩られたホテルの会場が一瞬まっくらになり、さいはての村からやってきたその老医師だけがスポットライトを浴びて、私の言葉に耳を傾けているような気がしてならなかった。

もうひとつ、印象深いことがある。

その人は笑わなかった。授賞式に続くパーティ会場で挨拶を交わしたときも、むっつりと笑わぬお顔が印象的であった。さきに頭を下げられた私は、ただいっそう身を低めて、「光栄です」、と言った。あまりに無愛想な挨拶ではあるが、他に言葉が見つからなかった。

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