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本当の神はおのれが神であることを知らない

ところで、私が思いついたように一年前のこの出来事を書く理由を、読者はすでにお察しであろうか。

先だって、場所がらもわきまえず終始幼児のように笑い続けていたあの医師のことである。

学界の泰斗(たいと)と呼ばれ、位人臣を極めたその老学究は、居並ぶ国会議員にもテレビカメラにも臆さず、まるで人の不幸や世の不幸が彼の幸福であるかのように、終始笑い続けていた。

事実の真偽はさておくとしても、決して笑ってはならぬ場所でへらへらと笑い続け、笑いながら自己弁明をくり返していた彼は、泰斗であれ権威であれ、わがままな人間である。

憤りとともに、私は一年前にお会いした笑わぬ人のことを、思い出したのであった。

さいはての診療所のテレビに映ったわがままな笑顔を、その人はいったいどんな気持ちで見たのだろう。また、その人を慕い、その人を恃(たの)む8000人の村人たちは、あの老獪(ろうかい)で愚かしい大学者の笑顔に、何を感じただろう。

答弁をおえて国会を去る大学者の背に、傍聴人席から「ひとごろし!」という罵声が浴びせかけられた。言われた本人は心外であったかも知れない。だが、事実はともかくとして、他人の災難を臆面もなく笑いとばすような人間はひとごろしと同じであると、私は思う。

男は本来、愚痴と同様わがままを言ってはならない。

しかし、万已(ばんや)むをえずわがままを言わねばならないことは、人生にいくどかはあると思う。そしてそのときには、家族に対し、友人に対し、真摯(しんし)に誠実に、「私のわがままを許してほしい」、と言わねばならない。

少くとも人の生き死ににかかわる答弁に際して、満面の笑顔を以てするのは、男子たるもののわがままではあるまい。幼児のそれである。

ニュースを見たあと、私は1年前の小冊をもういちど読み返した。

ぶ厚いメガネをかけ、聴診器を耳に挟んで患者を診察する笑わぬ写真を見たとき、私の胸は熱くなった。その人は受賞の言葉の冒頭にこう書く。

「思いがけない大きな賞を頂くことを光栄に思い乍(なが)らも只自分で選んだ道を歩んで来たに過ぎない私はとまどいも感じて居ります──」

おざなりの言葉ではない。その人はたぶん、本心からそう言った。

僻地の人々にとって、その人は目に見える神であった。本当の神は、自らが神であることを知らない。そして、泰斗と呼ばれ権威と崇められ、自らを神としたかった老学者は、実は幼児でしかなかった。

輸入血液製剤とHIV感染をめぐる疑惑は日々深まって行く。役人と学者は窓ガラスを割った子供のように責任をなすり合う。

二度にわたる大津波で破壊しつくされたさいはての村で、その人は8000の生命を担う責任を、他の誰にも転嫁することができなかった。神のいない村で、自らが神となるしかなかった。

ただ「人が居れば医療がある」と考え、十分な設備も薬もなく、輸血するべき血液もなく、保険すらもない曠野の村で、42年も、たったひとりで戦ってきたのである。

そう思えば、金と名誉にまみれた学者たちのシミひとつない白衣など、見るだにおぞましい。矛盾だらけの答弁をくり返す日本赤十字は、かつて僻地の「日赤病院分院」に送りこんだひとりの医師が、四十二年もそこにとどまっていることをはたして知っているのであろうか。しかもその人は、自らのわがままだと言って、かの地にとどまったのである。

授賞式のとき、その人が壇上でとつとつと語った言葉は忘れ難い。受賞が望外であったこと、ただ自らが選んだ道を歩んできたに過ぎないこと、家族にわがままを言ったこと。そして最後に、たしかこう結んだ。

「明日、帰ります。患者さんたちが、私を待っていますから」

心の色は赤十字、という古い軍歌が、私の胸に甦った。

人間の偉さが、決して富や名誉で計れるものではないということを、二人の医師は私に教えてくれた。

(初出/週刊現代1996年5月25日号)

※編集部注

「場所がらもわきまえず終始幼児のように笑い続けていたあの医師」とは、薬害エイズ事件で告発された安部英帝京大学副学長(当時)を指す。

1980年代、血友病患者への治療に非加熱製剤を使用し、多くの患者をHIVに感染させた「薬害エイズ事件」。この事件において、官僚、医師、製薬会社の役員らが告発されたが、安部はその一人である

『勇気凛凛ルリの色』浅田次郎(講談社文庫)

浅田次郎

1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。

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おとなの週末Web編集部 今井
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