日本には、法令で定められた国章(国の象徴となる紋章や旗章など)はないが、古来から“菊の紋章”がパスポートなどへ慣例的に使われている。菊の紋章といえば、皇室の紋章を想像する方もおられるだろう。では、皇室の紋章はいつの頃から「菊」(十六葉八重表菊形)になったのか、皇室の紋章や旗章のデザインはいつの時代に制定されたのか。素朴な疑問に向き合ってみたい。
※トップ画像は。菊の紋章が輝くお召列車けん引用DD51形ディーゼル機関車=1997(平成9)年12月13日、JR高崎運転所(群馬県高崎市双葉町)
はじまりは天皇の私印
鎌倉時代の第82代・後鳥羽(ごとば)天皇は、菊の花を好んだといわれ、みずからの“お印”にも菊をあしらい使用していたという。以後、第89代・後深草(ごふかくさ)天皇、第90代・龜山(かめやま)天皇、第91代・後宇多(ごうだ)天皇と、「菊のお印」を引き継いだことから、「菊花紋」が定着したといわれる。また、官軍の軍旗として「錦の御旗(にしきのみはた)」を用いたのも、後鳥羽天皇が最初だといわれている。
天皇旗は明治から
明治天皇は、1871(明治4)年9月に当時は濱殿(はまでん)とよばれた浜離宮(現在の都立浜離宮恩賜庭園)へお出かけになった。東京都中央区にある、東京湾の海水を池に引き入れた徳川将軍家が所有していた海辺の庭園だ。その際に、天皇の前を行く騎馬(騎手)に、“天皇旗”を捧げ持たせることを取り決めた。このことは、当時の公文書に残されており、そこに記された旗の大きさは、タテ約36センチ、ヨコ約49センチ、菊紋の直径約20cm、旗竿の長さ85cmのものだった。この旗竿は、鯨のヒゲでできていたといわれる。
旗章のデザインに関しては、1869(明治2)年8月の太政官布告で公示されているものの、同年3月に行われた明治天皇の東京行幸絵図(錦絵)には「天皇旗」が描かれているなど、どの時点で取り決めが行なわれたのかは、はっきりしない。のちの1889(明治22)年9月に、宮内省が正式に「天皇旗」の制定を行なっているが、この時のデザインは1871(明治4年)年9月に使用したものを、改めて公示したものだった。