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大学を卒業後にクルマ雑誌の『ベストカー』を発行している三推社(現講談社ビーシー)に入社して以来、30年以上クルマ雑誌業界にどっぷりと浸っているアラカンの自動車雑誌編集者の気ままなフェラーリのミニカーライフをお届け。

初めてフェラーリのミニカーを購入したのは、大学生時代の1990年。それ以降、積もり積もってウン千台。何も考えずに数を集めることに執着していたものの、気が付けば今ではかなりプレミアがついているものもあるみたい。

ミニカー生活の記念すべき第1日目は何をテーマにするか迷った結果、赤くないフェラーリF1。フェラーリ=イタリアンレッドのイメージが強いなか、異質なマシンたちを4台紹介する。

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1960年代はプライベーターにF1マシンを販売

フェラーリは1950年からチャンピオンシップが制定されたフォーミュラワン(以下F1)に第1回大会から2024年現在も参戦を続けている最古参のチームと知られている。F1に参戦しているのはスクーデリアフェラーリで、ロードカー部門とは違う。

スクーデリアとはイタリア語で厩舎を意味する単語だが、イタリアではレースに参戦するチームに使われている。

フェラーリのワークスチームがスクーデリアフェラーリなのだが、フェラーリはレースをビジネスとしていることもあり、1960年代まではプライベートチームにもマシンを供給。というよりもマシンを販売して、自らの活動の重要な資金源にしていた。そんなプライベートチームはいろいろなカラーリングが存在し、今回紹介するのもスクーデリアフェラーリのマシンではなくプライベーターのマシンだ。最後の一台を除いて……。

フェラーリ166FL(1949年)

ファンジオがプライベーターとしてF1に参戦した時の貴重なアルゼンチンのナショナルカラーがナイス

『赤くないフェラーリのF1マシン』と銘打っていながらのっけから恐縮だが、166FLはF1マシンではない。F1は1950年からだから、その前年ということになる。もともとフェラーリは166を当時のF2規定で開発。FLとはフォーミュラリブレの略で、リブレ=自由、つまり統一規格は存在せず、独自の規定で開催されるレースだ。

このマシンをドライブしたのはJ.M.ファンジオで、車名の166は、1気筒当たり166ccであることを意味している。フェラーリのコロンボユニットのV12だから、排気量は166×12=1992ccだった。

ファンジオのマシンのカラーリングは母国アルゼンチンのナショナルカラーであるスカイブルーに黄色をあしらったもの。ミニカーではちょっとくすんだブルーになっているが、赤いゼッケン16番も映えている。

伝説のF1ドライバーのファンジオだってプライベート参戦していたのも凄いね。

フェラーリ500F2(1952年)

カナリアイエローのフェラーリF1マシンはお世辞抜きにカッコいい

前述のとおり、かつてのフェラーリの車名の数字は1気筒あたりの排気量を意味している。500F2も例外でなく1気筒当たり500ccから命名されている。フェラーリと言えば12気筒というイメージから500cc×12で6000ccと思いがちだが、500F2に搭載されたエンジンはV12ではなく直4。つまり排気量は2000ccということになる。

500F2は1951~1952年の2シーズン、フェラーリのF1マシンとして実戦投入されていたが、圧倒的なポイテンシャルでアルベルト・アスカリが2年連続ドライバーズチャンピオンを獲得した名機として知られている。

ここで紹介する500F2はCharles DeTornaco(チャールズ・トルネコ)がドライブした一代で、イエローのボディカラーが鮮烈。フェラーリにとってはイエロー(カナリアイエロー)は赤と並ぶ重要なカラーなで、フェラーリファンからの評価も高い。

フェラーリ625F1(1954年)

ライトブルーにホワイトのアクセントカラーがオシャレ

625F1は1954年にF1のエンジン規定が2.5Lに排気量アップされたことに対応して登場させたマシンで、1954~1955年にかけてレースを戦った。前述同様に、排気量は625cc×4で2500ccとなる。

基本的なプロポーションは500F2と変わらないが、サイドマフラーの取り回しなどが改良されている。最も大きな違いは、フロントタイヤ後ろのエアロフィンで、当時エアロダイナミクスの試行錯誤が行われていたことは想像に難くない。

このマシンで有名なのはワークスドライバーのジュゼッペ・ファリーナだろう。ただ625F1は、マセラティ、メルセデスの台頭により苦戦を強いられチャンピオンは獲得できず。

ここで紹介するマシンはフランス人ドライバーのRobert Manzon(ロベール・マンソン)で、地元フランスのゴルディニのマシンにもドライブしている。ナショナルカラーのフレンチトリコロールではなく、ライトブルーのボディにノーズ先端にホワイトのアクセントカラーをあしらっている。白地のゼッケンとともになかなかのセンスを見せる。

フェラーリ158F1(1964年)

ワークスフェラーリで赤以外は超貴重。こんなモデルもミニカー化されている

これまでイタリアンレッドではないオリジナルカラーが施されたプライベートチームのフェラーリF1マシンを紹介して生きたが、最後の一台は1964年の158F1。白とブルーのカラーリングがオシャレなマシンだ。

実はこの白/青の158F1はプライベーターではなくスクーデリアフェラーリのワークスマシンだ。ドライバーも当時のフェラーリのエース、ジョン・サーティースだった。

実はフェラーリはスポーツカーレース用に開発した250LMがGTカテゴリーに認定されなかったことに対して競技ライセンスを返上するという抗議に出た。しかし、158F1はチャンピオン獲得の可能性があるためボイコットすることができず、苦肉の策としてアメリカ、メキシコの北米ラウンドは、フェラーリの北米のディーラーとして有名だった、NARTでエントリーしたのがここで紹介するマシンだ。NARTはNORTH AMERICAN RACING TEAMの略で、ル・マンで有名なルイジ・キネッティが設立し、フェラーリの北米の販売増強に大きく貢献。

この158F1の車名の158は、1気筒当たりの排気量ではなく、1.5L、8気筒を意味する。フェラーリ512BBが5L、12気筒を意味しているのと同じ。このあたりのネーミングの曖昧さもフェラーリ伝統のひとつで、都合のいいようにいかようにも変えるのがフェラーリ龍というわけ。

マシンのボディワークは先に紹介した1950年代のマシンよりも明らかに洗練されているし、サイド排気ではなく広報排気となっているのも当時のトレンドだ。

フェラーリのワークスマシンで赤以外のマシンは超貴重で、エースのサーティースはこのマシンでチャンピオンを獲得。同時にコンストラクターズと合わせて二冠を達成。

こんな貴重なモデルがミニカー化されているのはうれしい限り。

市原信幸
1966年、広島県生まれのかに座。この世代の例にもれず小学生の時に池沢早人師(旧ペンネームは池沢さとし)先生の漫画『サーキットの狼』(『週刊少年ジャンプ』に1975~1979年連載)に端を発するスーパーカーブームを経験。ブームが去った後もクルマ濃度は薄まるどころか増すばかり。大学入学時に上京し、新卒で三推社(現講談社ビーシー)に入社。以後、30年近く『ベストカー』の編集に携わる。

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市原 信幸
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