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今でこそ世界で確固たる地位を築いている日本車だが、暗黒のオイルショックで牙を抜かれた1970年代、それを克服し高性能化が顕著になりイケイケ状態だった1980年代、バルブ崩壊により1989年を頂点に凋落の兆しを見せた1990年代など波乱万丈の変遷をたどった。高性能や豪華さで魅了したクルマ、デザインで賛否分かれたクルマ、時代を先取りして成功したクルマ、逆にそれが仇となったクルマなどなどいろいろ。本連載は昭和40年代に生まれたオジサンによる日本車回顧録。連載第4回目に取り上げるのはロータリーロケット、初代マツダRX-7だ。

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広島でマツダは特別な存在

プロフィール欄にも書いているが、私は広島県呉市で生まれ育った。名物といえばお好み焼き、カキなど美味しいものがいっぱいあるが、広島東洋カープは広島を代表する存在だ。ちょっと前にカープ女子などが登場して必要以上に注目が集まっていたとように思えるが、私が小学校の時に、カープは「赤ヘル軍団」に変貌を遂げ、同時に人気も全国区になった。当時の小学生はたいてい野球帽を被っていたが、赤ヘル化に合わせて、赤いカープキャップが街中に溢れていた。

その広島東洋カープの”東洋”というのは、マツダの前身である東洋工業。マツダは東洋工業のブランドで、1984年にマツダに社名変更したので、マツダになってまだ40年。

東洋工業として初の4輪車は軽自動車のR360クーペ

私の故郷の呉市といえば、造船業とともにマツダブランドでクルマを製造する東洋工業は特別な存在だった。私の父親は違ったが、実際に東洋工業本体、関連会社、パーツなどを請け負う鉄工所レベルを含めると、多くの人が従事していた。

私が小学生の頃、「東洋工業が倒産する」という話を耳にして子どもながらにけっこうヤバいかも、と思っていた。東洋工業時代を含め、マツダは幾度も経営難を迎えながらもその都度ブレークスルーを果たして乗り越えているが、東洋工業時代のロータリーの商品化がなければ、倒産もしくは他メーカーに吸収されていても不思議じゃない。

紆余曲折のロータリー

マツダは1968年に世界で初めて量産ロータリーエンジンを搭載したコスモスポーツを発売。メルセデスベンツ、日産などロータリー搭載車を開発していたがいずれも断念した。

ロータリーエンジンはレシプロエンジンに比べてコンパクトかつパワフルで、しかもモーターに例えられるスムーズな回転フィールが特徴だ。これがアメリカマーケットで絶賛され、初の輸出モデルのファミリアロータリークーペの後、カペラロータリーの安定的な人気によりマツダは復活劇を遂げた。

1968年に世界初の量産ロータリーエンジン搭載車として発売開始したコスモスポーツ

しかし燃費が悪い、排ガス中の有害物質が多い、エンジンオイルの消費量が多いなどのネガも抱えていたなか追い打ちをかけたのが1973年のオイルショックで、アメリカ環境保護局のEPAからガスガズラー(燃料大食い車)に指定されたことで北米での販売が激減して一転大ピンチ。マツダはいいことの後に、ピンチが訪れる数奇な自動車メーカーなのだ。

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サバンナRX-7にクルマ好きは熱狂...
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市原 信幸
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