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今でこそ世界で確固たる地位を築いている日本車だが、暗黒のオイルショックで牙を抜かれた1970年代、それを克服し高性能化が顕著になりイケイケ状態だった1980年代、バブル崩壊により1989年を頂点に凋落の兆しを見せた1990年代など波乱万丈の変遷をたどった。高性能や豪華さで魅了したクルマ、デザインで賛否分かれたクルマ、時代を先取りして成功したクルマ、逆にそれが仇となったクルマなどなどいろいろ。本連載は昭和40年代に生まれたオジサンによる日本車回顧録。連載第13回目に取り上げるのは、ホンダのオープンFR(後輪駆動)スポーツのS2000だ。

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ベースとなったのはショーモデルのSSM

ホンダは1995年に開催された東京モーターショーで、SSMという名称のオープンスポーツカーのコンセプトカーを世界初公開。エッジのきいたシャープなデザインが特徴のオープンスポーツで、当時のホンダ車にはないテイストが当時話題になった。その時の反響が大きかったので市販化に向けてゴーサインが出されたと言われている。SSMとはSport Study Modelの略で、後に市販化されたS2000のベースとなったのだ。

スタディモデルゆえにデザインはまだ非現実感はあるが、ホンダの新たな可能性を期待させてくれた

対照的な2台のオープンスポーツコンセプト

実は1995年の東京モーターショーにホンダはSSMのほかにもう1台のオープンスポーツカーのコンセプトカー、Argent Vivo(アルジェント・ヴィーヴォ)も展示していた。SSMがホンダ社内デザインだったのに対し、Argent Vivoは数多くのフェラーリ車をデザインしたことでも有名なピニンファリーナが担当していた。

直線基調でピュアスポーツのSSMと丸みを帯びたラグジュアリー志向のArgent Vivoは好対照だったが、2台のオープンスポーツカーを同時に展示するなど今では考えられない。個人的にはArgent Vivoが気に入っていたが、ほとんど話題にもならず……。この年の東京モーターショーの主役はSSMで、話題を独占していた。

ピニンファリーナがデザインしたArgent VivoはSSMとは対照的に丸みを帯びたデザイン

S2000はスペシャルなクルマ

本田宗一郎氏は、1948年9月24日に静岡県浜松市にホンダ技研工業を設立。1998年に大きな節目となる50周年を迎え、1998年10月4日にツインリンクもてぎ(現モビリティリゾートもてぎ)での50周年記念イベントの『ありがとうフェスタinもてぎ』でS2000のプロトタイプ(市販を前提とした試作車)が初披露となったのだ。

『ベストカー』1998年11月26日号の誌面。純白のS2000プロトタイプがオーバルを走行。ドライバーはエンジン開発責任者の乙部豊氏

S2000はホンダで久々の新型のオープンスポーツカーという期待感はもちろんあったが、何よりも”ホンダのS(エス)を継承するモデル”ということが重要。これについては後述するが、それに加えて”ホンダの50周年記念車”というスペシャルな一台でもあったため注目度は絶大だった。

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ホンダ創立50周年記念イベントで独占撮影!?...
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市原 信幸
市原 信幸

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