国内外のアーティスト2000人以上にインタビューした音楽評論家の岩田由記夫さんが、とっておきの秘話を交えて、昭和・平成・令和の「音楽の達人たち」の実像に迫ります。マドンナの第3回も、セカンドアルバム『ライク・ア・ヴァージン』の世界的ヒット直後、1985年1月のインタビューの様子がつづられます。人類滅亡までの最後の30分間に何をするか―――そんな質問へのマドンナの答えは……。
ニューヨークで逢ったマドンナの妹
マドンナの有名な伝説がある。ミシガン大学を中退した20歳の年、35ドルを手に(バス会社の)グレイハウンドの長距離バスで故郷を後にした。目的地であるニューヨークに着くとタクシーの運転手にこの街で一番大きな場所へ行きたいと言った。運転手はマドンナを(マンハッタン地区にある繁華街の)タイムズスクエアで降ろした。マドンナは“私はこの世界で神よりも有名になる”と誓ったという伝説だ。
今ではウィキペディアにも紹介さているこの話は、ぼくがインタビューした1985年にはウィキペディアも無かったし、そうポピュラーな伝説では無かった。ただ8人兄弟の3番目として生まれ、5歳の時に母を亡くし、継母との確執もあったマドンナは幸せな少女時代を過ごしたとは言えないだろう。
1980年代後期、ニューヨークに行った時、マドンナが所属するサイアー・レコードを訪ねた。そこでぼくを担当してくれた女性があまりにマドンナに似ていた。そのことを彼女に訊ねたら、何と彼女はマドンナの妹だった。彼女を姉マドンナの伝でサイアー・レコードに職を得たと言う。“姉は小さい頃から音楽とダンスが大好きだった。モータウン・ソウルに合わせてよく踊っていたわ。大変な努力家だったけど、興味のないことには目もくれなかった。いつかニューヨークに出て、スターになると言っていた。そして、その通りになった。そんな姉を誇らしく思うわ”と語っていた。
「その頃の仕事が私をスキャンダルに招く」
そんな裸一貫でニューヨークへやって来たマドンナが、両親がプエルトリコ生まれの苦労人のプエルトリカン2世のジェリービーンと恋に落ちたのは自然な成り行きだったのだろう。“まだ誰も私を知らなかった頃、色々な仕事をした。売春だけはしなかったけど、ありとあらゆるダーティな仕事もした。これから、その頃の仕事が私をスキャンダルに招くのは分かっている”。マドンナはそんな話もしたが、ぼくが彼女と逢った1985年1月の時点ではどんなスキャンダルかは不明だった。
その後、無名時代にヌード写真を撮影されたり、ポルノ映画もどきに出演していたことが明らかになった。しかし、マドンナは自らがヌードになったアーティスティックな写真集を発表。逆にそういった不遇時代のスキャンダルを葬り去ってしまった。マドンナほどのスーパースターがヌードになれば、無名時代のヌード写真など現在進行形のヌード写真集にかなうわけがない。