執筆中は100年前の中国人になりきり…
その間いったい何をしていたかというと、作品の舞台が中国であるので、まず市の教養講座に通って北京語を習い始め、中国人留学生と飯を食ったりお茶を飲んだりし、戦前の北京や天津を知っているお年寄を訪ねて話を聞き、古書街を漁り、博物館を訪ね、三度三度中華料理を食って胃を痛めていたのであった。
こういう作業にはきりがないのである。しまいには小説を書くためにそうしているというより、ほとん100年前の中国人になりかわってしまい、ある朝、鏡を見たら卑屈な宦官が立っていたので驚いた。
書斎はわけのわからん書籍にうめつくされてしまい、壁には大陸の古地図とか戦前の北京市街図とかが貼りめぐらされ、古道具屋で見つけたガラクタとか、さる士大夫の直筆になる書簡とか、清王朝の皇統図とか官吏の組織図とかがゴロゴロと転がって足の踏み場もない。そのただなかに、中華街で買った黒い長袍(チャンパオ)を着、小帽(シアオマオ)を冠り、怪しげな色眼鏡をかけて机に向かうころになると、このさき小説を書き始めるか中国に亡命するか、生きる道は二つに一つしかなくなる。
で、ようやく半年後、そうしたすばらしい環境の中で筆を執ることとなった。
家族が私の変容にあまり興味を示さないのは、馴れているからである。先だっては闇市のブローカーに変身していたし、数年前は旧陸軍の軍服を着て小説を書いていたこともあるので、中国服ぐらいでは全然ビクともしないのである。
ただし、いちど軍刀を吊ったまま真夜中にタバコを買いに行き、交番に連行されたという苦い経験があるので、何が起こるかわからないから中国服のまま外出はするなと言われている。
かくて1年半のふしぎな生活の末、めでたく脱稿のときを迎え、私は平成の日本に帰ってきた。
しかし推敲(すいこう)を了え、原稿が手を放れるまではまだ平常の生活に戻るわけには行かない。
ところで、御同業のみなさまも執筆に当たっては、多かれ少かれ私と同じようなことをなさっているのだろう。そう思ってパーティの折などによくよく観察すれば、なるほど時代劇作家はさむらいや町人の顔をしており、推理作家は探偵のような顔をしている。ハードボイルド作家はみな筋骨隆々として渋い目付きをしているし、SF作家は異星人か異次元の人に見える。近ごろベストセラーとなった「パラサイト・イヴ」の作者の顔をグラビアで見たとき、とっさにホラーを感じたのは私ばかりではあるまい。
そういえば、銀座のバーで船戸与一氏の姿に思わず手を合わせたのは、氏が巨編「蝦夷地別件」を脱稿なさってから、そう日は経っていなかったころであろう。どうりで吹雪の曠野を歩いて銀座に乗りこんできたような迫力に満ちていた。
近日中に江戸川乱歩賞の受賞パーティに出席する予定であるが、まさか卑屈な宦官の顔をして行くわけにはいかないので、それまでせいぜい他の世界に頭を移動させておかねばなるまい。
ともかく、脱稿をした。
この解放感こそが、小説家の醍醐味である。本当なら明日からでもこの解放感とともにオーストラリアで羊と遊ぶか、ニューカレドニアの海上ホテルで昼寝をするかしたいところなのだが、私は貧乏なのでそういうまねはできない。中国服を脱いで銭湯に行って2年間の汗を流し、茶漬を食って猫と遊ぶ。
こうして私も近いうちに、弁当箱状の厚物を書店の店頭に並べることになった。はたしてどういう評価をいただき、どんな売れ行きを示すのか楽しみである。
ともかく、脱稿をした。
解放感とともに前作のイメージを、頭の中からきれいさっぱり拭い取らなければならない。この作業は熱中した作品であればあるほど難しい。こういうとき、下戸の身は哀しい。
いずれにせよ一両日中に気分転換を図らねば、このさき溜りに溜った仕事に手が付けられぬ。
ともかく、脱稿をした。
(初出/週刊現代1995年9月16日号)
浅田次郎
1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。