国内外のアーティスト2000人以上にインタビューした音楽評論家の岩田由記夫さんが、とっておきの秘話を交えて、昭和・平成・令和の「音楽の達人たち」の実像に迫ります。中島みゆきの第2回は、1976年のデビュー・アルバム『私の声が聞こえますか』リリース前に、“インタビューに慣れるためのインタビュー”の機会を得て初めて逢った時の回想です。恐ろしく無口だった背景とは……。
1975年に「時代」が大ヒット
中島みゆきがスターへの切符を手にしたのは、1975年12月21日リリースのセカンド・シングル「時代」の大ヒットだった。この曲はレコード発売前の同年秋にそれぞれ開催された、ヤマハ音楽振興会主催の第10回ポピュラーソングコンテストと第6回世界歌謡祭で、グランプリの栄冠に輝く。今も歌い継がれる中島みゆきの代表曲だ。
デビュー・シングル「アザミ嬢のララバイ」の発売は同じ年の9月25日。プロとしての滑り出しは、極めて順調だったと言っていいだろう。
ただ、華やかな活躍の陰で、中島みゆきは、ある心配事を抱えていた。デビュー・レコード発売直前に父親が脳溢血で倒れ、危険な状態に陥ったのだ。
そんな気持ちが落ち着かない中、中島みゆきは同年10月12日の第10回ポピュラーソングコンテストへの出場を決意する。この時は父の病室から、会場となった「つま恋エキジビションホール」(静岡県掛川市)に直行したという。そして、「時代」は見事に、1万数千の応募曲の中からグランプリに選出されたわけだ。
ギター1本の圧巻の演奏
第6回世界歌謡祭は、その約1カ月後だった。11月に日本武道館で開催され、32の国・地域からミュージシャンが参加して46曲が披露された。日本からは、中島みゆきの「時代」以外に、松崎しげるの「君の住んでいた街」や因幡晃の「わかってください」などが歌われている。
本選で中島みゆきはオーケストラの演奏とともに歌ったが、グランプリ受賞後のアンコールに応えたときは、自分のギターだけだった。
ほとんど無名のシンガー・ソングライターにかかわらず、ギター1本で武道館の聴衆を虜にしたのだから、彼女の潜在能力の高さが伝わってくるエピソードだ。
このときは、「時代」のほかに、メキシコのミスター・ロコの「ラッキー・マン」もグランプリを受賞している。賞金は、5000ドルだった。
父親は1976年1月、意識が戻ることなくこの世を去った。良心的な医師であったが故に、中島家には父親が残した現金はほとんど無かったという。世界歌謡祭で獲得した賞金が葬儀代にあてられた。