インタビューに慣れるためのインタビュー
ぼくが初めて中島みゆきと逢ったのは、アルバム・デビュー作として1976年4月25日にリリースされた『私の声が聞こえますか』の発売少し前のことだ。当時、ヤマハ音楽振興会にはKさんという名マネージャーがいた。中島みゆきをデビュー直後に担当し、その後もあみん~岡村孝子、チェッカーズなどの売り出しに敏腕をふるった名物マネージャーだ。
当時のぼくはKさんの親友だった葛西幸雄という年上のFM東京の名プロデューサーと釣り友達だった葛西幸雄はFM東京でフォーク・ソングの普及に貢献した人物でもある。その葛西さんがネコちゃんと呼ばれていたK氏を紹介してくれた。K氏も大の釣り好きでぼくに良くしてくれた。
そしてK氏はアルバム・デビュー前の中島みゆきと逢わないかと声掛けしてくれたのだ。場所は六本木のホテルの一室で、待っていた中島みゆきは、淡いオリーブグリーンのワンピース姿だったことを覚えている。ホテルの白い壁に淡いオリーブグリーンの中島みゆき。妖精のようなイメージだった。部屋にはぼくと中島みゆき、そしてKさんの3人しかいなかった。
この初めての中島みゆきとの出逢いは、どこかの音楽誌に記事を書くとかいう公式なものでは無かった。こういうセッティングは昭和時代のマネージャーがよく行った。主な目的は担当するミュージシャンにインタビューに慣れてもらうためであった。ぼくも昭和時代、サザンオールスターズの桑田佳祐など、デビュー前のミュージシャンに何人か逢えている。
“妖精”のイメージ、中島みゆきの心の内
妖精とぼくがイメージした中島みゆきは恐ろしく無口な人だった。とにかく、何を訊ねても、“ええ”とか“ハイ”としか答えが返って来ない。持参した120分のカセットテープの6分の1くらいしか、彼女は話していなかった。
中島みゆきが無医村などを勤務することを生き甲斐としていた、尊敬すべき父親を亡くしたばかりだったと、インタビュー時にぼくは知らなかった。彼女の心はまだ愛すべき父親の死から立ち直っていなかった。それを知ったのは随分と後のことだった。それでもごくわずかだが、彼女は“ええ”と“ハイ”の間にポツポツと自分を語ってくれた。
岩田由記夫
1950年、東京生まれ。音楽評論家、オーディオライター、プロデューサー。70年代半ばから講談社の雑誌などで活躍。長く、オーディオ・音楽誌を中心に執筆活動を続け、取材した国内外のアーティストは2000人以上。マドンナ、スティング、キース・リチャーズ、リンゴ・スター、ロバート・プラント、大滝詠一、忌野清志郎、桑田佳祐、山下達郎、竹内まりや、細野晴臣……と、音楽史に名を刻む多くのレジェンドたちと会ってきた。FMラジオの構成や選曲も手掛け、パーソナリティーも担当。プロデューサーとして携わったレコードやCDも数多い。著書に『ぼくが出会った素晴らしきミュージシャンたち』など。 電子書籍『ROCK絶対名曲秘話』を刊行中。東京・大岡山のライブハウス「Goodstock Tokyo(グッドストックトーキョー)」で、貴重なアナログ・レコードをLINN(リン)の約400万円のプレーヤーなどハイエンドのオーディオシステムで聴く『レコードの達人』を偶数月に開催中。最新刊は『岩田由記夫のRock & Pop オーディオ入門 音楽とオーディオの新発見(ONTOMO MOOK)』(音楽之友社・1980円)。