国内外のアーティスト2000人以上にインタビューした音楽評論家の岩田由記夫さんが、とっておきの秘話を交えて、昭和・平成・令和の「音楽の達人たち」の実像に迫ります。今回から始まるのは、高橋幸宏です。1952年、東京都目黒区出身。子供の頃からドラムを始め、高校生でプロに。サディスティック・ミカ・バンドなどを経て、78年に細野晴臣、坂本龍一とともにイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)を結成、海外でも熱狂的な支持を得ました。83年のYMO“散開”後も、音楽活動を精力的に続け、ファッション・デザイナーや文筆の分野、俳優としても活動するなど幅広い分野で活躍してきましたが、2023年1月11日、誤えん性肺炎のため亡くなりました。70歳でした。第1回は、ミカ・バンド時代やYMOデビュー翌年のワールドツアーの頃のエピソードです。
ユキヒロのことを知ったのは70年代初期
2023年1月15日、高橋幸宏がこの世を去ったと報道された。2020年に脳腫瘍の手術をしてリハビリをしていた。高橋幸宏とはfacebookで友達となっていて、リハビリ期間中、愛犬と共に軽井沢の別荘にいる姿をよく投稿していて、それがぼくのタイムラインにしばしば流れてきた。
ミュージシャンとして活動を始めた頃からしばらくは“高橋ユキヒロ”と名前を漢字ではなく、カタカナ表記していた。ミュージシャン仲間もユキヒロと呼んでいた。ぼくが高橋幸宏~ユキヒロのことを初めて知ったのは1970年代のごく初期だった。誰からユキヒロのことを訊いたかは忘れてしまったが、生前のユキヒロと親交のあった頭脳警察のパンタか、ベルウッド・レコードの創始者で細野晴臣などが在籍したはっぴいえんどのプロデューサーであった三浦光紀(こうき)氏あたりが教えてくれたと思う。まだ高校生だったのに、凄いドラマーがいる。そんな話を訊いた記憶がある。
音楽ファンに知られるのは、ミカ・バンド加入の頃から
ガロに加入し、音楽的方向性の違いから脱退したユキヒロの名が音楽ファンに知られるようになったのは、加藤和彦のサディスティック・ミカ・バンドに加入した頃からだ。当時のユキヒロはまだ20歳で、武蔵野美術大学短期大学部に在籍中だった。
サディスティック・ミカ・バンドは元ザ・フォーク・クルセダーズの加藤和彦が結成したことで、当時の音楽ファンはそれなりに注目していた。加藤和彦、ユキヒロだけでなく、ベースの小原礼、後藤次利、キターの高中正義、キーボードの今井裕など、その後の日本の音楽シーンを支えた名ミュージシャンも在籍した。
マニアライクな話では、デビュー・アルバムに当時、まったく無名だった小田和正もピアノでサポート・ミュージシャンとして参加していた。今ならレジェンド級のメンバーが顔を揃えてはいたものの、デビュー・アルバムのセールスはオリコンにランクされるほど売れていなかった。