文化大革命によってすべてを奪われた 李啼平先生は民国六年、西暦1917年に満洲吉林省で生まれた。 北京の紫禁城(しきんじょう)にはいまだ清の廃帝溥儀(ふぎ)が、民国政府の優待条件を得て暮らしていたころである。先生は長じて…
画像ギャラリーバブル経済崩壊、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件など、激動の時代だった1990年代。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルからの視点で切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」は、約30年の時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。この平成の名エッセイのベストセレクションをお送りする連載の第62回。作家が中国取材の折、何の予告もなく紹介された無名の老人によって、学問とは、文化とは何かを教えられた顛末について。
「老師について」
会った瞬間、清らかな空気が漂い出た
北京の胡同(フートン)に李啼平(リーテイピン)先生を訪ねた。
昨年の暮のことである。
李啼平先生、といきなり言っても、読者は誰も知らないであろう。もちろん私にとっても見知らぬ人であった。同行したガイドの女性が、どうしても私に会わせたい人がいると言って、先生に引き合わせて下さったのである。
胡同と呼ばれる北京の路地は、今や近代化の荒波の中で消えつつある。そんな胡同の一隅に、李先生は住んでおられた。瀟洒(しょうしゃ)で清浄な、古い四合院(しごういん)であった。
先生がどういう人であるのか、私は聞かされてはいなかった。だから過密な取材日程の中で、なぜガイドの恩師にあたるというその老学者に会わねばならないのか、正直のところいささか不満であった。
だが、言われるままに訪れた四合院の傾いた門楼(もんろう)の前に立ったとき、私は私がそこを訪ねねばならなかった理由に、何となく気付いた。その家のほの暗い内庭からは、まことにふしぎな、つつましく真摯(しんし)な、あるいは簡潔で清浄このうえない風が、ふんわりと流れ出ていたのである。
寒い夕昏(ゆうぐれ)どきであった。李啼平先生は紺色の詰襟服を着、小さなお体を折り曲げて異国からやってきた突然の来訪者を迎えて下さった。
私はまず、ひとめ見て強い衝撃を受けた。相手の誰であるかを何も知らずに「衝撃を受ける」などという表現は少しオーバーかもしれない。しかしそのとき私は、たしかにわけもなく愕(おどろ)いた。
先生は両手で私の掌を握り、正確な日本語で、「よくおいで下さいました、遠いところ」とおっしゃった。
私はしばらくの間、ぼんやりと先生のお姿に見入っていたと思う。この人はいったい誰なのだろう。おのずと漂い出るこの清らかな空気は、いったい何なのだろう。
「狭いところですけれど、どうぞ」
先生の居室に私は導き入れられた。そこでも私はまた、しばらくの間ぼんやりとしてしまった。
冷たい石造りの部屋。寝台と古い机。小さな卓と椅子。それだけだった。
壁には夫人の遺影が飾られており、卓の上に山盛の林檎(りんご)が置かれていた。来客のために手ずから用意して下さったのであろうか、林檎の皮は不器用に、かつ誠実に剝かれていた。
ガイドが私を紹介した。日本の小説家だとか先生だとか、そういう言い方はやめてほしいと思った。
気恥かしいと思ったとたん、私は自分がぼんやりとしてしまった理由に思い当たった。つまり目の前にいるこの老人は、あたりの空気を染めてしまうほどの偉大な学究なのだと悟った。
それから私は、何もしゃべれなくなった。生来が人前で物おじをする性格ではない。しかしそのときの私は、老学究の小さな体からおのずと漂い出る空気に、まったく怖気(おじけ)づいてしまったのである。
まっしろになってしまった頭の中に、かつて小説を書くために詰めこんださまざまの事柄が甦(よみがえ)った。
李先生は世界中のどこを探してもいない、また歴史上ほかのどの国にも存在しえない、清廉な支那の老学究であった。
背を丸めてとつとつ語り始めた経歴には、毛ほどのてらいもなかった。
文化大革命によってすべてを奪われた
李啼平先生は民国六年、西暦1917年に満洲吉林省で生まれた。
北京の紫禁城(しきんじょう)にはいまだ清の廃帝溥儀(ふぎ)が、民国政府の優待条件を得て暮らしていたころである。先生は長じて北京に上り、日本語と数学とを修(おさ)められた。さらに昭和13年、留学生として日本に渡り、慶応義塾大学で法律を学ばれた。
なぜ専門外の法律を学ばれたのかという私の問いに、先生はこともなげに答えた。
「そのころの中国には、法律が必要でしたから。数学よりも」
日本が大好きだと、先生は話しながら何度もくり返した。しかしそれ以上のことには触れようとしなかった。大好きな日本と母国とが長い戦(いくさ)をしたことについて、語るべき言葉はなかったのであろう。
やがて北京で教鞭(きょうべん)をとっていた先生に、文化大革命の嵐が見舞う。かつて日本に留学し、日本語を話すというただそれだけの理由で、先生は三角帽を冠せられ、「罪状」を記した看板を首から吊り下げられて、晒(さら)しものにされた。財産はことごとく没収され、一家離散の憂き目に遭った。
歳月を経て北京の胡同に戻ったとき、こう思ったそうだ。
ああようやく学問の続きができる、と。
そうした言葉のひとつひとつに、私は胸が詰まった。
ガイドの説明によれば、中国では学者の社会的な地位がたいへん低いのだそうだ。もちろん収入も少く、大学教授だからといってことさら権威があるわけではない。つまり、学問そのものが非生産的行為であるとみなされているがゆえであろう。
しかし、当の先生はそうしたことにべつだんの不満を感じておられるというふうはなく、まったく超然としておられた。漂い出る清廉さのみなもとは、学問の尊厳と、それを希求してやまぬ学者の魂だけなのであろう。
学びて時にこれを習う、亦(ま)た説(よろこ)ばしからずや。
先生の小さな体を鎧(よろ)っているものはただひとつ、論語の冒頭にあるこの一節だけにちがいない。そして、これほど単純で、これほど鞏固(きょうこ)で、またこれほど美しい鎧を身に纏(まと)っている人物を、私はかつて知らなかった。
先生の清らかな机の上には、東京の大学から送られてきたという分厚い書物が置かれていた。北京語に翻訳中であるという。
「あと5万字、残ってます」
80歳の老学究は笑顔をほころばせて言った。
拙著を差し出すとき、手が慄(ふる)えた。
何の欲得も打算もなく、積み上げられて行くもの
日が落ちると、気温はたちまち氷点下に下がった。
葉の落ちた槐(えんじゅ)の並木道を、李先生は外套も着ずにはるばると私たちを送って下さった。
寒いからもうお帰り下さいと言うたびに、いったん立ち止まって握手を交わすのだが、しばらく歩いて振り返ると、名ごりおしげに後をついてこられるのであった。
私たちは再見(ツアイチエン)、再見と、かわるがわるに言って手を振った。
編集者もカメラマンも小説家も、先生にとっては「大好きな日本人」なのであろう。そう思えば、にわか仕込みの知識を並べつらねて世に問うたつもりの物語など、一文の値打ちもない。
先生は胡同の一隅の、あの古ぼけた四合院の部屋で、昼間は子供らに数学を教え、夜は小さな机にうずくまって、日本語の書物の翻訳をする。
80年の人生の間に自らがなしてきた大業にすら気付くこともなく、今までと同じように、これからもずっとそうして行くのであろう。
ようやく私たちの後を追うことをやめた先生は、冬枯れた槐の並木道に、老いた背を丸めて立ちつくしておられた。そしてときどき、私たちに向かって手を振った。
黄砂のとばりが小さな姿を隠してしまったとき、私たちはわけもなく、みな歩きながら泣いた。
先生の不遇な人生について嘆いたわけではない。私たちは、学問というものの正体を見たのだった。文化というものは、何の欲得も打算もなく、このようにして積み上げられて行くものなのだと、初めて知った。
黄砂の中に消えて行く先生の姿は、誇り高き支那の叡智(えいち)そのものだった。そして、清廉な士大夫(したいふ)の姿そのものだった。
いまふと思った。いったい先生は、いつまで手を振っていらしたのだろう。
李啼平老師。学問とは人の振り返るや否やにかかわらず、ひたすら平(たい)らかに啼(な)き続けること。
中国の旅は、私にこのことを教えてくれた。
(初出/週刊現代1997年2月8日号)
浅田次郎
1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。
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