でも、このパンツは捨てたくない
甘い、と私は思った。
人生はまだ折り返しなのである。今日までセッセと積み上げた努力を世に問うのは、まだこれからなのである。肉体の老化はいかんともしがたいが、それを正確に知り、巧妙に制御しつつ後半生をまっとうに生きねばならぬ。これは男子の義務である。
と、ここまで思惟したところで、さきに述べたように、リアリズム追求のための稿に挑もうと考えたのであるが、いきなり冒頭から「私はいま、うんこを洩らした」というふうに書けば十中八九はボツになるであろうと思い直し、とりあえず風呂場に行った。
折しも家族が不在であったのは幸いである。外は雨、猫どもは眠っていた。
何しろパンツをはいたままの座りグソであるから、その惨状たるやとうてい筆舌には尽くしがたい。書けと命ぜられれば商売なのだから、細密なる描写を試みる自信がないわけではないが、文章表現におけるリアリズムの追求は、映像の前にはすでに無価値であると信ずるがゆえ、ここは行間を読ませる。
パンツを脱いだとき、ふと迷った。
常識的判断からすれば、かように穢(けが)れたパンツはビニール袋にくるんで捨てるべきであろう。
しかしそのパンツは、先日ニューヨークはマディソン街で購入した、カルバン・クラインであった。値段も高かったけれど、なにせカルバン・クラインの本店で買ったのである。そこいらで買ったその他のパンツとは、そもそも出自がちがう。たかだかクソに汚れたくらいでゴミ箱に捨てるのは、あまりに忍びがたかった。
しかもそのパンツは、ダーク・グレーの同色のTシャツと対(つい)になっており、パンツだけが消えればTシャツは気の毒な後家となる。私は常にシャツとパンツのメーカーは同一でなければ気が済まぬ。だとすると、罪もないTシャツまで、パンツとともにゴミ箱に捨てねばならない。ましてやお気に入りのカルバン・クラインがセットで消えたとなれば、家人はいち早くそれに気付き、多分に怪しむであろう。
どこに置いてきたのと問いつめられて、まさかうんこを洩らしたのでゴミ箱に捨てました、とは言えない。口がさけても言えない。さる事情により捨てたなどと言えば、よけいに怪しい。
汚れたパンツをぶら下げたまま、私は風呂場でしばし懊悩(おうのう)した。
次善の策としては、わが手で洗濯をし、乾燥機にかけ、そのまましらばっくれることであろう。しかし本稿の締切時間は刻々と迫っており、おもらしパンツを洗っている時間はなかった。
ましてや、その洗濯作業の最中に家族が帰ってきたら、いったい何と言いわけをすればよいのであろう。どう考えたって他の理由は思い浮かばないから、うんこを洩らしたので自分で責任をとっているのだよ、と言うしかあるまい。誠実すぎて涙ぐましい気がする。
時間的にも無理であるが、いっけん正道と思えるこの方法を採用すれば、家長としての権威はまちがいなく失墜すると私は思った。
捨てられぬ。洗えぬ。だとすると、残る策はひとつしかなかった。
雑巾バケツに水を張り、パンツを漬けておく。それだけでよい。
そう、家長はトイレに行く間も惜しんで、仕事をしているのである。もし笑われたり咎(とが)められたりしたら、体じゅうの息を吐きつくすような溜息をつき、「小説を書くというのは、大変なことなのだよ」などと呟けばよろしい。
バケツに堂々とパンツを浸し、シャワーを浴びて身を浄(きよ)めたのち、私はこのおかしくも悲しい原稿を書き始めたのであった。
不慮の事故ではある。しかし、私の思いすごしでなければ、日常の激務と体力の低下によって引き起こされた、必然の結果かもしれぬ。だとすると、多くの読者も同様の体験をお持ちなのではあるまいか。
つらつらとクソの役にも立たぬ原稿を書いてしまったが、若い編集者の手でボツにされぬよう、希(ねが)ってやまない。
(初出/週刊現代1998年7月11日号)
浅田次郎
1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。