女将やマダムのいる店は、何かが違う。「女将」ってなんだろう?その姿に迫る『おとなの週末』連載「女将のいる場所」を、Webでもお届けします。第3回目の今回は、東京・渋谷で2014年に開業した料理と日本酒の店『松濤はろう』の女将、井上仁美さんです。
『松濤はろう』の女将・井上仁美さん
『松濤はろう』のカウンターで飲んでいると、お燗番の女将が、隣で酒肴を盛る大将に「いらっしゃいました」と小声で告げた。引き戸が開き、女性客が現れる。
この予知現象の種を明かせば、入口前の階段を降りる足元が見えたから。戸が開けばわかる来客を、わざわざひと呼吸前に共有するのは、「ふたりでお迎えする心の準備」だ。
井上仁美さん、1983年生まれ。秋田・美郷町(みさとちょう)という水が綺麗で米の豊かな郷で育った娘は、順当に食べることが好きで、日本酒が好き。料理人になって両方できる店を開こうと、東京の居酒屋や和食店の厨房で働いた。
「漫画『蔵人(クロード)』を読んで、私もがんばろうって。描かれた母娘の小料理屋のように、カウンターがあって、常連客が通う、料理と日本酒の店を開きたいと思ったんです」
その途上、職場で料理人の井上隆之さんと出会い、2012年に結婚。夢が「ふたりの店」に変わると、女将、という新たな道でがんばりたくなる。和食の作法と接客を修業し、着付けや書道を習い、調理師と利酒師(ききざけし)の資格も取得。
燗つけは『蔵人』に登場する酒屋のモデルとなった三重の『安田屋』に学び、現場で自分の形を探った。
2014年のクリスマス、『松濤はろう』は渋谷区松濤に開店。36歳の大将は白衣の下にネクタイを締め、31歳の女将は着物に長丈の割烹着。昭和への敬意に満ちた選択は「自分なら、割烹着の女将さんを前に飲みたいから」。
『松濤はろう』の日本酒の品書きは、半紙に毛筆書きだ。仁美さんによるのびやかな筆致で記された銘柄は、すべてに仮名(かな)が振られている。
読み違いを訂正するのも申し訳なくて、という謙譲は、すなわち客に恥をかかせない。飲み手もまたのびやかに、時には強者たちが挑みくる。さあ旨い酒を飲ませてみろ。受けて立つ彼女は、彼らの顔をほころばせたら勝ちだ。日本酒に愛を誓って、松濤で9年。
「これから」を訊ねたら「このまま」と返す、決して口上手ではない女将の、確かめながら重ねた言葉。「お店を続けたい。ここで、ふたりで、老舗になるまで。築50年以上のこの建物が保もってくれる限りは、ずっと」
なんでも夫婦で相談し、「暑いってだけで喧嘩」もしながら。休日は一緒に酒蔵巡りへ、でも、海釣りはひとりで。