食通王の妹が今際の際に望んだもの 音楽家たちが食に対してひたむきな姿勢を保っていた中で、なぜかモーツァルトだけがエピソードに登場してこない。 ピエール・ソワンゾという伝記作家は、モーツァルトの性格がそもそもエピソードにな…
画像ギャラリーローマの皇帝は、フランスの太陽王は、ベートーベンは、トルストイは、ピカソは、チャーチルは、いったい何をどう食べていたのか? 夏坂健さんによる面白さ満点の歴史グルメ・エッセイが40年ぶりにWEB連載として復活しました。博覧強記の水先案内人が、先人たちの食への情熱ぶりを綴った面白エピソード集。第29話をお送りします。
自宅にパン工場、畑、牧場まで作った作曲家
ものの本によると、ショパンとバッハは肉よりも魚を好んで食べたという。
魚好きは繊細な人が多い。ショパンはジョルジュ・サンド女史とマジョルカ島に逃避行したときも、やはり魚ばかり食べていたのだろうか。ホワイト・ソースであっさりと仕上げた料理が好物だったというから、飲みものは白ワインだったはずだ。
恋狂いの二人はローソクの灯に照らされた食卓で、お互いを見つめ合いながら、白ワインや魚料理を思い出したように口に運んでは、再び熟れて熱い沈黙にひたったのであろうか。
それはそれ。
作曲家のシュットもまた食をゆるがせにできない1人だった。
作品がお金になると、まず自宅の一室を改築して、ちょっとしたパン工場を作った。もちろん自分専用の工場である。
次にお金が入ると敷地を広げて野菜畑をしつらえた。それでも予算が余ったのかどうか、小さな牧場を作って牛や羊、鵞鳥や鶏を飼いはじめた。
数年後には、マスが釣れる川まで敷地を広げて、シュットの食卓にのぼるものは、ステーキからパセリに至るまですべて自園でまかなわれるものばかりになった。
皮肉屋のトマは、シュットの徹底ぶりを見てこういった。
「やっこさんが次に何をするか教えてやろうか。なアに、自分の墓石に自分で銘を彫りはじめるさ」
こうした野次にもめげず、シュットは晩年近くに、若鶏の肝とトリュフを主体に、野菜のみじん切りを加えた絶品のポタージュを発表し、百家争鳴の食都パリの食通たちを唸らせたものである。
食通王の妹が今際の際に望んだもの
音楽家たちが食に対してひたむきな姿勢を保っていた中で、なぜかモーツァルトだけがエピソードに登場してこない。
ピエール・ソワンゾという伝記作家は、モーツァルトの性格がそもそもエピソードになりにくい地味で気弱な男であったという。
『仄聞するところでは、モーツァルトは食事中におしゃべりすることを好まず、ひたすら黙々と好物の黄身が6個並んだ目玉焼きを食べるだけだった。また彼はスープ類に目がなくて、どんな種類のスープであれ、ひたすら黙々とすすり、お代わりをねだるのだった』
これならエピソードがないどころか、6個の目玉焼だけでも充分な逸話になるではないか。しかも《ひたすら黙々》というから、やっぽりモーツァルトも食べることにまじめな男だったのである。
フラソスの食通王の一人、ブリア・サヴァランは、フランス革命で国を逃げ出し、亡命先のアメリカでオーケストラのヴァイオリン弾きをやっていたから、まあ音楽家のはしくれといえるわけだが、そのサヴァランにベレットという妹がいた。
サヴァランは代表作『美味礼讃』を1冊と、ケーキにその名を残し、1826年に死んだが、妹のべレットは長生きだった。
彼女はある晩、夕食をたっぷりとたいらげてから女中を呼んだ。
「デザートを早く! いますぐに持っておいで!」
女中がけげんな顔をすると、ベレットは続けて叫んだ。
「早くデザートを! わたしは死にそうな気がするんだよ」
彼女はデザートをきれいに食べてから息を引き取った。99歳と11ヵ月だった。
(本文は、昭和58年4月12日刊『美食・大食家びっくり事典』からの抜粋です)
夏坂健
1936(昭和9)年、横浜市生まれ。2000(平成12)年1月19日逝去。共同通信記者、月刊ペン編集長を経て、作家活動に入る。食、ゴルフのエッセイ、ノンフィクション、翻訳に多くの名著を残した。その百科事典的ウンチクの広さと深さは通信社の特派員時代に培われたもの。著書に、『ゴルファーを笑え!』『地球ゴルフ倶楽部』『ゴルフを以って人を観ん』『ゴルフの神様』『ゴルフの処方箋』『美食・大食家びっくり事典』など多数。
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